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187 真田信之 ~藩の基盤を整えたキーマン~

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「四面楚歌の徳川幕藩体制の下で生き延びた苦労は、自分と同じだ」。大阪から家族連れで松代を訪れた会社オーナーは、競争の中で経営を続ける厳しさを、松代藩真田家初代藩主の真田信之(信幸)に重ねた。

 華々しく戦場に散った幸村(
信繁)は多くの人にアピールする
が、実務の世界で苦労してきた会社員や経営者は、上田城から移り、松代藩の基盤を整えた信之に心情を寄せる。

 一般に「真田三代」というと、幸隆、昌幸、幸村を指す。昌幸の長男であり、幸村の兄である信之は枠組みから外されている。けれども、人生50年が常識だった時代に93歳まで生き、真田家のキーマンとなったのは信之だろう。徳川にとっては憎き一族であり、いつ取りつぶしになってもおかしくない状況の中、松代真田は明治維新まで続く。

 信之は1566(永禄9)年に生まれた。弟の幸村は1~3年後くらいに生まれたといわれるが、明確ではない。

 長野市指定の史跡にもなっている信之の墓は、松代町中心部から少し離れた千曲川堤防近くの大
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鋒寺(だいほうじ)=写真下=にある。隠居所と墓があるので、信之の由緒に詳しい人の訪問が増
寺を預かるのは冨沢秀樹さん。寺の代表という肩書だ。高校で国語の先生を務めている。戦前にはあった真田家の香華料は、今はないという。先代から受け継いだ檀家の少ない寺を守っている。「今月は広島から団体さんが、東京からも来る予定です」と、応対する夫人は、真田ブームの影響で忙しい。えている。墓の前には鳥居が立つ。


 市教委の案内板などによると、信之は、徳川家康がとっく
に没し、4代将軍家綱の時代になった1656(明暦2)年に隠居した。90歳を超えていた。次男の信政を2代藩主にしたが、信政は58(元治元)年に死没。跡目をめぐり、藩を二分するお家騒動が起きる。
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介入する幕府重臣の策謀を排して、3代幸道に決着させるが、心労のためか亡くなる。

 信之には「西へちろり東へちろり...明星の如き我が身なりけり」という句がある。

 関ケ原の戦いを前に、昌幸・幸村が石田方に、信之が徳川方に―と、東西に分かれて戦うと決めた「真田父子 犬伏の密談」、上田から松代への理不尽な移封...。信之は波乱続きの人生を隠忍自重して、真田家の旗印、家紋である「六連銭(むつれんせん)(六文銭)」の意地を貫いた。
(2016年5月28日号掲載)

=写真1=大鋒寺にある真田信之の墓
 
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