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25 感謝 ~行き先を導かれる 素直に走り続けて~

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 残り1年ほどで、浅川子どもプラザの施設長を定年退職します。今度はゆっくり休もうと思います。

 24歳で秋田を離れてから長野が第二の故郷になりましたが、現役選手を引退してからも、生まれ故郷は温かく見守ってくれました。

 秋田県湯沢市長を務め、私を市総合体育館の名誉館長にしていただくなどした二坂信彦さんへの弔電が、地元国会議員の次に張り出されたといいます。「今でも私のことを思ってくれているのだ」と、思わず感動しました。

 また、「筋書きのないドラマ」というフレーズは、よくスポーツ実況で耳にしますが、本当に涙があふれるほどの場面と出くわしました。姉が亡くなり、火葬場にいた時のことです。

幾つもの出会い
 他家のご遺体が運ばれてきて、周囲に見覚えのある人がいました。お聞きしたところ、棺(ひつぎ)の中の人は、私をクロスカントリーの選手として育ててくれた湯沢北高校(現湯沢翔北高校)スキー部監督の入江種友先生だったのです。ご本人が家族に、亡くなった時は誰にも伝えず、ひっそりと式を終えてくれと、伝えていたそうです。

 スキー関係者では、私だけが最期の姿に会うことができたので、ご縁を感じるとともに、導いてくれた亡き姉に感謝しました。

 高校入学時に、何げなくクロスカントリーを始めてから今日まで、幸運にも新たなレールを何本も敷かれ、その上を素直に走ってきたことで、ここまでこられたのだと思います。

 入江監督と出会い、高校3年生で全日本選手権を初制覇しました。菅圭一郎市長にお会いし、地元秋田でスキーを続けることができたことで、全日本選手権や国体で好成績を挙げられました。ノルディックでは、女子選手として初めて、世界選手権のメンバーに選ばれました。

 独りで練習をする限界を感じるようになり、大きな挫折を味わっていると、大東文化大学に新設されたスキー部の斉藤貢監督から声を掛けられて、入部しました。

 卒業後は、塩島澄博監督からお誘いを受けた北野建設スキー部に入ることで、1972年札幌冬季五輪に出場。長野県教育委員に任命されると、長野五輪の招致委員にも任ぜられ、開催実現に奔走させてもらいました。以後も、県や長野市のいろいろな役員を務めさせていただきました。

今後も役に立てれば
 私が汽車の機関士としたら、入江監督をはじめ多くの方々がレールを敷いてくれ、新たな行き先へ導いてくださいました。車両は、秋田県と第二の故郷長野県の人たちでいっぱいです。

 車掌は母と兄、姉です。私が海外遠征などに臨むときは、現地の地図を印刷した風呂敷を用意し、応援してくれている人たちに配ってくれました。

 選手時代、私はとことん、勝つことにこだわっていました。勝利がもつ素晴らしさが、私を応援し、支えてくれた人たちへの恩返しになると思っていたからです。きつい練習の時は、喜んでくれる人たちの顔を、いつも目に浮かべながら、歯を食いしばって全力で頑張り抜きました。

 健康なうちは、また何かお役に立てればと思います。応援していただいた多くの皆さま、本当にありがとうございました。
(聞き書き・塚田裕文)
(2016年5月28日号掲載)
千葉弘子さんの項おわり


=写真=浅川子どもプラザの自席で

 
千葉弘子さん