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02 家族のこと ~5歳の時に父亡くす 家事育児で苦労の母~

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 私は太平洋戦争終戦の年の1945(昭和20)年3月27日、長野市浅川清水(きよみず)で、父・益治郎と母・ますのの三男として生まれました。きょうだいは、3歳年上の兄・清美、2歳年下の妹・光江です。このほか、家には祖母と叔母2人がいました。叔母2人は、その後お嫁に行きました。きょうだいとしては、ほかに長女と長男がいましたが、3歳になる前に2人とも疫痢で亡くなったと聞いています。

 当時の清水は28軒ほどの民家が集まる村落で、全てが「竹元」の姓でした。外から見えないようなひっそりとした山の中にあり、おそらく権力争いに敗れて追われた竹元という一族が住み着いたのではないかと推測しています。ただ、「清水(しみず)」という姓の人もいたようです。

39歳の若さで
 清水には清水観音、白山神社、寺
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院がありました。火事で清水観音と寺院が焼失しましたが、観音跡には樹齢数百年ともいわれる藤の木が残っています。近くには真光寺の鐘つき堂もあったそうで、おそらく歴史と由緒ある地域だったのではないでしょうか。

 「タケモト」の多くは竹本で、竹元と書くのは珍しいのではないかと思います。ちょっと話が飛びますが、私が東宮侍従をしていた時、鹿児島の旅から帰られた浩宮さまが「指宿の山から下りてきた所に竹元医院という看板がありました」と教えてくれました。それで九州にも竹元姓があることを知りました。

 幼少時の思い出といえば、4歳の頃の夏に起きた火事ですね。中曽根の母の実家に遊びに行っていた時に、清水で大きな火事がありました。急いで母と清水に戻りましたが、わが家は全焼して、跡形もありませんでした。

 ある家の男の子が、わらぶき屋根にできた蜂の巣を焼こうとして火が燃え広がったのが原因で、村落のほとんどの家が焼失してしまいました。近くの白山神社に避難している時、その子の父親が雨の中で謝っていたのを覚えています。

 父は私が5歳の時に胃がんで亡くなりました。39歳の若さでした。父についての記憶はほとんどありませんね。ただ、火事の後しばらくの間、物置で暮らしていた時のこと。兄とけんかをしているのを見た父が「ひもとはさみを持ってこい」と言って、私の両手を後ろ手にひもで縛りました。

女手一つで育てられ
 運悪くハエが私の鼻に止まったのでしかめっつらをしていると、若い叔母がハエを追い払ってくれました。善光寺裏の池のほとりで父に抱き上げられた1枚の写真が、辛うじて父の面影をしのばせてくれています。

 家はリンゴ栽培と稲作、野菜などを作って生計を立てていました。父が亡くなった後、母は農作業に加え、家事と育児で大変苦労しました。母の寝ている姿を見たことがありません。祖母も一生懸命働いていました。祖母はリンゴを入れた籠を背負って町に売りに行き、夜に帰ってきました。膝を痛め、おきゅうをして膿(うみ)を出していたのを思い出します。

 女手一つで私を育ててくれた母は93歳で、妹も60歳で他界し、いま長野の実家は兄が守ってくれています。稲作はやめましたが、「ふじ」などのリンゴ栽培を続けています。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2016年6月11日号掲載)


=写真=父・益治郎と私。母・ますの(右下)
 
竹元正美さん