記事カテゴリ:

03 浅川小・中学校 ~山坂の片道5キロ通学 苦手だったスポーツ~

03-takemoto-0618p.jpg
 1951(昭和26)年の春、浅川小学校に入学しました。私の誕生日は3月27日。いわゆる早生まれなので、同級生とは最も長くて1年近い差がありました。体が小さく、並ぶ時はいつも一番前。これは高校まで続きました。

 1年生の時に校庭の鉄棒から落ちるなどスポーツは苦手で、特に運動会はみじめでした。駆けっこはいつもビリで、走っている途中で転んだりしました。3着まで賞品が出ましたが、私は一度ももらったことがありませんでした。

 清水(きよみず)の自宅から学校までは山道、坂道を歩いて通いました。片道5キロほどあったでしょうか。もちろん舗装などされておらず、雪道や雨で泥んこになった道も歩きました。

「野口英世2世」に
 通学路の途中に犬を放し飼いにしている家がありました。低学年の時、ほえられて怖かったので走って逃げようとしたら、太ももをかまれたことがあります。今でも怖そうな犬は駄目ですね。

 学校へは私の家の前に住んでいた同級生の竹元良弌(よしかず)君と一緒に通いました。5年生か6年生の時だったと思います。授業の一環で野口英世の映画を見た後、担任の三木保先生がある質問を出しました。しばらく誰も答えないので、先生は「この中に野口英世2世はいないのか」と言いました。これに対し、私が答えたことを覚えています。

 清水の白山神社の境内で、友達と3人で「おこんこさん占い」をしました。「3人のうちで一番成功するのは誰ですか」との問いで、不思議なことに「まさみ」ということになりました。

 横浜に住んでいた父の弟の竹元桂治郞叔父が、夫人と娘3人の家族連れで、たびたび清水の家に遊びに来ました。お土産にくれたおもちゃの自動車を自慢して友人に見せていたら壊れてしまいました。「もう土産は持ってこないぞ」としかられた記憶があります。また魚の干物をよく持ってきてくれました。

 父は私が小学校に入る前に亡くなりましたが、音楽が趣味だったと思います。家に蓄音機とたくさんのレコードを残していました。また、器用だったとみえて父用のミシンもありました。

飯縄山で頑張る
 浅川中学校(現・北部中学校)は浅川小と隣り合わせに建っていました。中学では同級生の竹元一雄君と一緒に登下校することが多くなり、特に理由はないのに学校の成績が良くなっていつもクラスで上位でした。相変わらずスポーツは全く苦手で、体育の時間や運動会は楽しくありませんでした。ただ、クラスで飯縄山に登った時は、頑張ったせいか3番目に頂上に着きました。

 小学校高学年の頃から中学生の間に、長野の町の映画館で東映の時代劇をよく見ました。俳優の中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵など懐かしいですね。

 家はリンゴの栽培や稲作でてんてこ舞いでした。男手としては兄が頼りでしたので、兄が大変だったと思います。みんなよく働いていました。リンゴの袋掛けの時期には青森からお手伝いの人が来ましたが、言葉が全然分かりませんでした。私もできるだけ農作業の手伝いをしました。リンゴの摘果、収穫、田植え、稲刈り...。いろんなことをやりましたね。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2016年6月18日号掲載)

=写真=片道5キロを歩いて通った浅川小(右側)・中学校(左側)
 
竹元正美さん