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188 真田信之と小野お通 ~書状に勇将のナイーブさ~

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 松代藩真田家初代藩主の真田信之(信幸)をめぐっては、幾つかの謎がある。興味深いのは、財力の源泉が何だったかと、都の才媛・小野お通(つう)との関係だ。

 1622(元和8)年、信之が上田から松代に国替えとなった時、27万両の隠し金があったとの伝説がある。大名が巨額の隠し金を持つのは、徳川幕府にとって看過できないことだった。

 「川中島の戦い」を繰り広げた上杉氏、武田氏とも、軍資金は金山だった。上杉氏は越後周辺に細かく金山を開発。武田氏は「甲州金」を基盤にした。財力は戦力そのものだった。

 信州に金山はない。真田氏は交通の要衝を押さえ、微細な通行料を財力にしたという説があるが、得心できるような裏付け史料はない。

 信之をめぐる女性では、遠戚の正妻を排して結婚した小松姫がよく知られている。徳川家康の腹心、本多忠勝の娘で、家康が養女にしたうえで送り込んだのが小松姫だ。真田家のために粉骨砕身して、武家の嫁の範とされる。1620(元和6)年、小松姫が48歳の時、旅先で急死した時、信之は「真田家の光が消えた」と嘆いたという逸話が残る。

 だが、小松姫の霊廟「御霊屋(おたまや)」がある松代の大英寺住職、鎌倉法弘(ほうこう)さんはこう解説する。「夫婦愛が言いはやされているが、信之の嘆きは徳川との縁が切れたことが本音と、私はみている」

 もう一人、信之の周辺に登場するのが小野お通だ。信之のお通に対する交情を示す史料が明らかになっている。

 上田から松代への国替えが決まった時、信之が「今度の国替えでは、朝夕涙ばかりだ...だが、子孫のため露の命が消えるまで生きる。哀れと思ってくだされ」とつづったお通への親書である。

 国替えへの不満が幕府に露見したら、藩の取りつぶしは必至。戦国の勇将にこれほどナイーブな面があったとは驚きだ。

 都の小野一族は、遣隋使の小野妹子に始まり、和歌と書道の小野道風(とうふう)、「美貌の女性」の代名詞でもある女流歌人小野小町らが連なる。戦国時代のヒロインがお通だ。信之は都の真田藩邸で、お通の夫を介してお通と和歌や浄瑠璃を楽しんだ。

 信之からお通への書状は、1990年に真田淑子さん=東京都、2003年死去=によって「小野お通」(風景社)として刊行された。

 淑子さんは、2代目信政の側室となったお通の娘との子で、真田勘解由(かげゆ)家初代となった信就(のぶなり)の子孫である。お通の娘は都文化の和歌や箏曲の八橋流を松代に伝えた。

 淑子さんは「信之が、あこがれの女人の娘を子息の妻にしたのは、優れた遺伝子を家系に取り入れたかったのでしょう」と解説する。
(2016年6月25日号掲載)

=写真=真田信之(上)と小松姫(下)=大英寺に展示
 
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