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05 退職・大学受験 ~外交官になるために 進学の必要性を意識~

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 1963(昭和38)年春、長野商業高校を卒業。日立製作所中央研究所(東京都国分寺市)で社会人としての第一歩がスタートしました。郷里を離れる前に長野市内の洋服店で、母が洋服とネクタイを買ってくれました。中曽根に住む親戚が運転する車で長野を出発。母と兄も同乗し、群馬県高崎市の観音像に立ち寄って東京へ向かいました。

 中央研究所(中研)では経理課財産係に配属されました。最初は、国立市にある借り上げ宿舎の2人部屋が住まいとなり、職場までバスで通勤しました。

 その当時「ハイパック103」という電子計算機が開発されており、仕事をするうちに「この電算機で減価償却費の計算ができないか」と考えました。

会社に高校OB
 それまではそろばんや手動の計算機を使って膨大な固定資産を1件ずつ手書きでカードに記入していました。努力が実ってコンピューターによる事務の合理化が実現し、中研から表彰されました。

 職場環境は素晴らしかったですね。公園の中にあるといった雰囲気で、プール、テニスコート、卓球場、野外劇場、診療所のほかに池や散歩道...。博士号を持った人も大勢いて、博士には変人が多いということから「へんじんばし」という名の橋もありました。しばらく後に国分寺恋ケ窪の独身寮に引っ越しました。

 会社には長野商業高校OBの若狭誠、松林茂美、美谷島健さんたち先輩がいました。入社2年目からは松林さんから譲り受けた自転車で通勤。先輩たちは私が退職する時に送別会を開き、胴上げをして送り出してくれました。現在、若狭さんと松林さんは八王子に在住。美谷島さんは長野に帰り、多方面で活躍されています。

 職場では大学卒の人たちにお世話になり、大学という存在を意識するようになりました。そして「将来、世界の平和のために国連がもっと重要な役割を果たすべきだ」と思い、外交官になろうと考えるに至りました。そのためには大学進学の必要があり、会社を辞めて予備校に通うことを決断しました。

 丸2年の勤務を終えて依願退職。職場の仲間はみんな快く送り出してくれました。今も感謝しています。

 早稲田に親近感
 親しくしていた平林愛邦さんや高校の同級生の水上洋一君が早稲田大学に通っていたことなどから、早大に親近感が芽生え、早稲田ゼミナールという予備校に入りました。

 JR中央線の阿佐ケ谷駅北にある3畳一間の桜アパートに住み、午前中は予備校、昼食は早大の学生食堂、夕方まで中野区立図書館で勉強。夕食は初めの1カ月間ほど自炊をしましたが、時間がもったいないので定食店で外食し、夜食はふかしたサツマイモやうどんを食べて深夜まで勉強しました。生活費は母が仕送りしてくれ、成人の日には杉並区からお祝いのアルバムを頂きました。

 受験先は数学など科目が多い国立大学を対象から外し、私立の3科目(英語、国語、社会)の受験を目指しました。合格した複数の大学の中から、なじみのあった早大法学部を選びました。合格した後、ひどい風邪をひきましたが、気が緩んだせいだと思います。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2016年7月2日号掲載)

=写真=日立製作所中央研究所経理課時代の私
 
竹元正美さん