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07 外務省入省 ~ベトナム戦争さなか 東南アジア所管課に~

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 25歳の誕生月の1970(昭和45)年3月に早稲田大学を卒業し、4月に外務省に入りました。同期は25人。うち半数以上が東大卒で、私学からは早大卒1人、慶応大卒2人でした。

 1年3カ月、日本で研修と実務を行った後、海外で語学研修することになっていました。留学する前まで横浜の叔父の家に引き続き下宿し、最初の3カ月間は東京都文京区の茗荷谷にあった外務省研修所に通いました。海外留学の調査で、米国での英語研修を希望し、認められました。

 外務省入省と相前後して、赤軍派による日航機よど号ハイジャック事件が発生。当時の北東アジア課長は大忙しでした。

副首相家族を案内
 国産旅客機のYS11で茨城県の自衛隊百里基地に行きましたが、飛行機に乗ったのはこの時が初めてです。茨城県東海村の原子力施設や大阪万博のほか、名古屋、京都、広島、長崎などを研修旅行で回りました。

 また、国内研修の一環として、当時の皇太子さま(今の天皇陛下)に東宮御所で初めてお会いする機会がありました。皇太子さまから「黒塗りの車は高級車として見られているが、人間の黒人はどうして差別扱いをされるのでしょうか」とのお言葉があったことを覚えています。

 研修を終えた後、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイを所管するアジア局の南東アジア第一課に配属されました。ベトナム戦争の真っ最中で、ベトナム和平のために日本が何らかの役割を果たそうと努力していました。私の仕事といえば、外国の情報の取りまとめや文書作成などのデスクワークが中心でした。

 南ベトナムの副首相家族を日本政府が招待した折、関西方面(大阪万博など)にご案内しました。またカンボジアの大統領一行の接遇も行いました。当時のアジア局長は須之部量三さんで、後に私が韓国に赴任した時の大使。南東アジア第一課の首席事務官は林貞行さん。2人とも後に次官になりました。

 留学先は自分で選ばなければなりませんでした。資料を調べて、国際連合セメスター(学期)があるニュージャージー州のドゥルー大学の大学院を希望しました。国連のことを勉強したかったのがここを選んだ理由です。

北米第一課へ応援も
 出発の3カ月ほど前に、沖縄返還交渉で忙しくしていた北米第一課に応援に行くことになりました。毎日午前さまで、帰宅は車で霞が関から横浜へ。仕事は書類の整理や持ち回り決裁。時には英文を和訳するなどさまざまでした。

 外務省にはいろんなクラブ活動がありました。私は「コール・エコー」というコーラス部に入部。北米第一課にいたころにコーラス部のコンサートが大手町で開かれました。忙しいさなかで、結局リハーサルは出ないでぶっつけ本番で出演し、ドボルザークの「スターバト・マーテル」や「山の歌」などを歌いました。

 同期の仲間と伊豆や栃木に遊びに行ったり、野尻湖の近くでスキーを楽しんだり。また、横浜の友人の家で朝までマージャンをしたこともありました。研修と実務と友人たちとの交流。こうして東京での1年3カ月が過ぎ、羽田から米国留学に出発しました。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2016年7月16日号掲載)

=写真=外務省入省時(左から兄、私、妹、母)
 
竹元正美さん