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112 吉江孤雁 ~地道に耐えて花咲かせる~

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蝸牛(かたつむり)の銀の涙
吉江孤雁

籬(まがき)に、門扉(もんぴ)に、板戸の表面(おもて)に、
いたるところ銀の涙を跡づける蝸牛、
双(ふたつ)の触覚は大空を探って、
おまへは全身で、自分の行跡を書きとめて行く。

  ◇

 梅雨のころにはカタツムリを見掛けたものだ。〈でんでん虫々かたつむり...角だせ槍(やり)だせ〉と歌にもあり、二対の角を持つ。

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 庭の草木に囲まれた古風な民家を思い浮かべれば、この詩を理解しやすい。木の枝や竹で編んだ粗末な垣根、門の扉、雨戸など板の外側...。あっちこっちにカタツムリの這(は)い回った跡が、白く光るような筋となって残る。それを詩人の感性は「銀の涙」と表現した。

 そして〈おまへは全身で、自分の行跡を書きとめて行く〉というくだりに至り、これはこの詩を作った詩人自らのことではないのか、と気付いてくる。カタツムリに己をなぞらえているのではないか、と。

 吉江孤雁。本名は吉江喬松(たかまつ)。1880(明治13)年生まれ、今の塩尻市長畝(ながうね)で育った。松本中学(現松本深志高校)時代に島崎藤村の「若菜集」で詩に目覚め、孤雁の号を使い始める。

 以来、多方面に才能を発揮した。仏文学者、早稲田大学教授、文学博士、詩人、文芸評論家、翻訳家、童話作家、歌人、農民文学提唱者...。数多い肩書きが、その多彩な活動ぶりを存分に象徴している。

 門下には詩人、童謡・歌謡作詞家の西条八十、同じく詩人の日夏耿之介、小説家の井伏鱒二、童話作家の坪田譲治らを輩出した。優秀な人材を育てる優れた教育者でもあった。

 「蝸牛の銀の涙」は、鎌倉から東京へ引っ越す前の1930(昭和5)年、梅雨のころに作った散文詩とされる。全部で30行と長い。

紫陽花に攀(よ)ぢのぼり、
軒柱にまでも跡を曳(ひ)き、
小さな我らの住家を取り囲んで黙動してゐる蝸牛らよ

 静かに、決して目立つことなく、動いた足跡だけをしっかりと残していく。そんなカタツムリの生きる姿は、学問に文学に日々没頭し、こつこつと書きためていった孤雁の人生そのものでもあった。

 長野自動車道塩尻インターの南西に、広々と水田の開けた長畝集落がある。「吉江先生の家ならあれですよ」。農作業の手を休めて指差してくれた先には、こんもりと木立が茂り、すぐ分かった。

 近づけば標柱に「フランス文学の先駆者 孤雁 吉江喬松博士生家」と記されている。ケヤキの巨木や松、杉などが生い重なり、奥に建物が見え隠れする。
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 孤雁は中学卒業後の3年間、ここで農作業に打ち込んでいる。政治好きの父親に代わり、文学への道を封印した人生修業だった。

 ようやく親を説き伏せ、上京の望みをかなえてからの刻苦勉励。確かにカタツムリのような足跡である。

 〔弟子の西条八十〕童謡「かなりあ」、歌謡「東京音頭」などの作詞者。孤雁生家の墓地に追悼碑があり、〈赤松の山ふもとに/わが恩師はねむりたまへり...〉と刻まれている。
(2016年7月16日号掲載)

=写真1=樹木に囲まれた吉江孤雁の生家
=写真2=西条八十の追悼碑
 
愛と感動の信濃路詩紀行