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189 明治天皇行幸 ~「後ずさり」で威厳を示す~

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 北国街道沿いの長野市田子にある池田家は、1878(明治11)年9月の「明治天皇北陸・東海道巡幸」で、明治天皇が小休止した場所だ。街道に面した門は、千曲川を船で運んで移築した飯山城の薬医門(裏門)で、傍らに「天皇御休止記念」の石碑がある。

 池田家は地域一番の財力を誇る地主で、造り酒屋を営んでいた。当時の主人、池田元吉さんが、母屋の隣の高台に総ヒノキ造りの座敷を新築し、屋根瓦には菊の紋をあしらい、湧き出る水で、明治天皇に茶を入れたと伝えられる。

 門前に掲げられている説明板には「一行は右大臣岩倉具視(ともみ)以下の文武百官一千人を越える大行列であった」と記されている。

 徳川幕府が崩壊し、近代天皇制の下で新政府が動き始めて間もないころである。街道沿いの人たちは江戸時代、加賀百万石の4千~5千人に及ぶ参勤交代の行列を見慣れていた。天皇巡幸は、新しい統治者の威厳を示すことが一番の目的だったとされる。

 坂が多く、道が狭い信濃路の巡幸では、馬車より輿(こし)が重宝された。「武家が多用した駕籠(かご)よりは輿がいい」というわけだ。輿は祭りの神輿(みこし)の原型だ。

 この時、前部を支える人たちは後ろ向きで歩いた―という興味深い伝聞がある。輿は轅(ながえ)という2本の太い棒で、前後8人以上で運ぶ。「前部の轅を肩にする人が前を向いて進むと、尻を天皇に向けることになり、大変に礼を欠く」という考え方だった。

 巡幸を率いた岩倉具視(1825~83年)は明治政府樹立の中心となり、新政府で大きな役割を果たした。戦後、五百円札に肖像も描かれている。岩倉には、「天皇は将軍より各段に偉い」ということを、江戸時代を惜しむ人たちの目に焼き付ける必要があった。「後ずさり」はその表れではなかったか。

 早朝、善光寺を出発した巡幸の列は、吉田、新町、田子を通り、さらに上り下りが激しい牟礼と豊野の峠道を進み、柏原、野尻から越後を目指した。「輿の後ずさり」を演出するには、格好の地形だったろう。

 明治の元勲の一人である大久保利通(1830~78年)の孫で、近現代史研究者の大久保利謙(としあき)さん(1900~95年)は「岩倉は維新の十傑で、天皇制の確立は功績の一つだが、失敗・挫折も多い剛腕の人だった」という座談を残している。

 長野市金箱の信叟寺(しんそうじ)にある山門も、田子の池田家が寄進。飯山城の大手門を移築した。現在の当主、池田一穂さん(80)は「あいにく、輿を支える人たちが後ずさりして峠を越えたかの話は聞いたことがない」と話す。東京のガス会社に定年まで勤め、数年前に帰郷した池田さんは「今はもっぱらボランティア活動をしている」という。
(2016年7月23日号掲載)

=写真=飯山城から移築された池田家の門

 
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