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063 軍馬慰霊 ~生死を共にすればこそ~

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  一切衆生(いっさいしゅじょう)
  皆 均(ひと)シク
  心有リ
  霊有リ
  人畜 何ゾ(なんぞ)
  別 有ラン

    ◇

 いわゆる普通の「詩(うた)」ではない。馬頭観音の石に刻まれた言葉だ。だれが起草したものか、それも定かではない。
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 けれども、ここには詩に通ずる心がある。読む人の胸に強く迫ってくる訴求力がある。
繰り返し味わいたくなる魅力がある。

 この世に生きているすべてのものは、みんな心を持っている。魂を持ち合わせている。人であろうと動物であろうと、どうして違いがあるだろうか。決してありはしない。

 こんな意味を込めて石碑建立の趣旨をつづった書き出しの部分である。真ん中に「馬頭観世音」の5文字が大きく彫られている。その向かって右側には「済南/支那両事変軍馬徴発記念」とある。

 左側の建立趣旨はさらに続く。両事変で出征した将兵の武運長久を祈願し、戦没者には追悼法要も懇ろであるにもかかわらず、徴発された馬にはそれがない。遺憾至極であり、ここに馬頭観音を建て、供養するのだ、と。

 細かに刻まれた文字は、コケが生えたりしていて判読しにくい。長野県内を精査した松本市の元公立学校長、関口楳邨(ばいそん)さんの労作「軍馬碑の調査」を頼りにやっと読み通した。

 明治の日清・日露戦争から昭和の太平洋戦争まで、中国大陸はじめ戦地に向かったのは兵士だけではない。馬も数多く動員された。

くにを出てから 幾月ぞ
ともに死ぬ気で この馬と
攻めて進んだ 山と川
とった手綱に血が通う

 「愛馬進軍歌」ではこう歌われている。ふだんは穏やかに田畑を耕していた農民と馬。それが人馬一体となって弾薬を運び、大砲を引き、広い荒野を転戦するのだった。

 梅雨のさなか、木曽郡木曽町の北部、JR中央本線の原野駅で鈍行を降りる。特急の止まらない無人駅は閑散としている。

 いったん木曽川沿いに旧中山道を南下してから、国道19号を横切った。支流の洞ノ沢と並行する小道を東の山中に向かう。途中、熊用のオリが仕掛けてあったりして薄気味悪い。

 国道から歩いて10分余、こつぜんと広場が見えた。大小いくつもの石碑が群立している。一番外れの大きなものが、目指す馬頭観音だった=写真。

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 こんなに街道筋から奥まった所にどうして? 木曽町文化財担当の千村稔さんに教えられ、疑問が氷解した。馬が農耕に励んだ昭和30年代まで、ここは「血取り原」と呼ばれた。ひづめを切ったり、過労で張った足腰の血を抜いたり、馬をいたわる場だったという。

 家族の一員同様だった愛馬が、戦場から戻らない。人も馬も血涙を絞った時代が、そう遠くない過去にあった。

 〔軍馬〕軍隊で使われる馬。乗馬用のほか荷駄馬、輓馬(ばんば)として重要な戦力を担った。第2次大戦では50万頭の農耕馬が徴発されたという。
(2014年7月19日号掲載)

=写真=石碑が並ぶ木曽町の「血取り原」
 
愛と感動の信濃路詩紀行