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11 韓国大使館時代 ~経済関係を担当する 大統領暗殺や民主化~

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 1978(昭和53)年夏、韓国大使館勤務のためソウルに赴任しました。最初の海外勤務です。大使館は須之部量三大使以下、次席公使、政務、経済の各公使や広報文化部、領事部、官房からなり、私は一等書記官として経済部に配属。経済部には野村忠作経済公使の下に、外務省のほか大蔵、通産、農林水産、運輸、労働の各省から1人ずつ来ていました。

 私の仕事は経済と経済協力関係全てに関わるもので、情報収集や東京からの訓令(指示)を執行しました。訓令で多かったのは調査、韓国政府との交渉事などです。韓国を訪れる国会議員などのお世話もし、石原慎太郎衆院議員を空港に出迎えたこともあります。

前夜の米国大使館
 日韓関係は比較的良好でしたが、北海道周辺海域での韓国漁船によるスケトウダラ漁業が懸案の問題でした。解決に当たって、韓国側の担当者とも知恵を絞りました。駐日韓国大使館勤務を終えて帰国していた大統領秘書室の柳明桓さんと、両国がともに受け入れ可能と思われる案を考えたりしました。柳さんは後に駐日韓国大使、外交通商部長官(外相)になりました。

 韓国滞在中の最大の出来事は朴正煕大統領の暗殺事件です。79年10月26日夜、中央情報部所有の秘密宴会場で開かれた夕食会で、金載圭中央情報部長によって射殺されました。その夜、私は日本大使公邸でのディナー後に米国大使館の前を通って帰宅したのですが、夜遅いのに同大使館ビルの全館に明かりがともっていたので何かあったのかなと思いました。

 翌日、朝早く電話で大統領暗殺のことを知りましたが、米国大使館は前日夜に情報を入手していたのでしょうね。この暗殺には米CIA(中央情報局)の関与説もありますが、真相は不明です。国葬に岸信介元首相を団長とする弔問使節団が来ました。その際のロジ(庶務)の実務責任者として受け入れ準備をしました。

 翌年の80年5月には、民主化運動の弾圧に端を発した光州事件が起きました。光州はソウルから南に約270キロも離れていますが、日本で事件の映像を見た友人、知人から大丈夫かとの連絡を受けたほどです。ソウルで起きた民主化デモを視察中に、警察側の催涙弾によるガスが目に入り、ホテルで目を洗ったこともあります。

南北関係は緊張状況
 韓国と北朝鮮との関係は、その時も緊張状況が続いていましたね。板門店に行く道路の所々に門があり、その上に大きな石が置かれていました。いざという時、この門を壊して大きな石で道路をふさぐというものでした。

 日本人の娯楽といえばゴルフが盛んで、館内コンペが毎月ありました。冬は池が凍って、ボールを打ち込んでも跳ね返って出てきましたね。国内旅行は家族でソラクサン(雪岳山)やチェジュ(済州島)などへ行きました。

 館員はみんな日本車を購入し、韓国人の運転手を雇っていました。交通事故に遭った際の保険に備えるためです。自宅ではお手伝いさんを雇うことになっていました。

 自宅は2棟からなる南山外人アパート。若手の館員や日本の民間関係者もこのアパートに住んでおり、お互い自宅の夕食などに招待し合っていました。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2016年8月20日号掲載)

=写真=駐日大使時代の柳明桓さん(左)と
 
竹元正美さん