
朝焼の雲海尾根を溢(あふ)れ落つ
梅雨の駅信濃にかえる家ありぬ
帰り来て妻子の蚊帳(かや)をせまくする
石橋辰之助
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ふわふわと棚引く一面の雲を初めて見下ろしたのは、二十のころだった。高校の後輩たちに付き添い、富士山(3776メートル)に登って体験した。

雲海―。まさに雲の海である。最近では北アルプス唐松岳(2696メートル)からの眺めが忘れられない。山頂の山小屋に泊まって翌未明、激しい風の音に目覚めた。
外に出ると、東の空が明るい。そのまま待つこと30分ほど、赤みを帯びた一角がみるみる広がり、赤や黄色の輝きが周りの雲をまぶしく染め上げていく。
それは石橋辰之助の一句にある通り、〈朝焼の雲海〉が辺りに満ち満ちて、あふれ落ちるような光景そのものだった。黒っぽい灰色にもくもく浮き立つ雲海のかなた、朝日をまともに受けた雲が、燃え上がる炎さながらに光彩を放っている。
石橋は1909(明治42)年5月2日、東京・下谷に生まれた。映写技師などをしながら俳誌「馬酔木(あしび)」を主宰する水原秋桜子に師事。雪崩、樹氷などを季語に生かし、山岳俳句に新境地を開いていく。〈雲海溢れ落つ〉はその代表作だ。
戦争末期の45年5月、焼け出されて妻子を唐松岳や白馬岳のふもと、北安曇郡北城村細野(現白馬村)に疎開させる。ピッケルやザイルを携え、たびたび訪れた登山口でもある。
一家離れ離れの生活は、不安で寂しい。〈梅雨の駅〉の句には「不幸ありて妻子疎開先より上京すれど家なし。(忽)(たちま)ちにして去る」との前書きがある。
東京まで出てきてくれたものの、義兄宅に居候の身では泊めることもできない。そのまま駅から引き返させるほかなかった。辛うじて信濃には、帰ることのできる家がある。
八月の雪見ゆ裾に妻子待つ
「白馬山麓」のタイトルがついている。そこに時たま、石橋自身もやって来る。〈帰り来て〉の句に久々一家が顔をそろえた安堵感がにじみ出る。狭い蚊帳の中に1人加わり、一層狭苦しくなるのも、また楽しいのだった。
どの辺りに疎開していたのだろうか。白馬村細野地区はいま、八方の呼び名で親しまれ、民宿はじめ観光施設が集中している。少し外れの田園地帯で、白馬三山を背にした往時の面影をしのぶほかない。

戦後は社会性俳句を提唱し、民主主義俳句運動に力を注ぐ。「新俳句人連盟」の創立にかかわり、幹事長、続いて委員長を務める。いよいよこれからという時、急性の粟粒(ぞくりゅう)結核が体をむしばんだ。48年8月21日、都内の病院で死去、39歳だった。
妻とおし真実遠しひとり病めば
哀切極まる絶句だ。
〔馬酔木〕高浜虚子の率いるホトトギス派から離れた水原秋桜子を中心とした俳句雑誌。虚子の客観的花鳥諷詠(ふうえい)に対し、より主観的な叙情性を重視。昭和の俳句革新を推し進めた。
(2016年7月30日号掲載)
=写真1=唐松岳からの朝焼け
=写真2=春先の白馬山麓