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114 絵島節 ~人生流転の悲劇を歌い継ぐ~

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 絵島節
(サエノ ヤレー)
絵島ゆえにこそ 門(かど)に立ちくらす
見せてたもれよ 面影を

(サエノ ヤレー)
雁(かり)が渡るに 出てみよ絵島
今日は便りが 来は
せぬか

   ◇

 江戸時代の、悲恋のヒロイン絵島(江島)の物語が、ここには歌い込まれている。

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 盆踊りの歌でありながら、しみじみ哀愁を漂わせて人の胸に迫ってくる。それは、時代の荒波にさらされ、抗するすべもなかった一人の女性の、数奇で過酷な生涯が、深く絡んでいるからだ。

 その辺を歌詞に添ってたどれば......。

 〈サエノ ヤレー〉は歌や踊りの調子を取るためのはやし言葉であり、大事だけれども、格別の意味はない。

 〈絵島ゆえにこそ〉で始まり、以下こう続いていく。

 絵島のことを慕わしく思えばこそ、門の前に立って待ち続けているのだ
よ。せめて見せてくれないか、あの華やかだったころの面影だけでも。

 次の〈雁が渡るに〉からは、自由に空を行き交う渡り鳥の仲間、ガンに思いを託す。

 はるばる雁が渡って来るよ。外に出てみなさいな、絵島。今日は恋しい人の便りが届くかもしれないじゃないか。

 絵島は、7代将軍徳川家継の生母、月光院に仕えた大奥の大年寄だった。奥女中を取り締まる重責だけに、身分は高い。1714(正徳4)年1月、その絵島と人気の歌舞伎役者生島新五郎との仲が、城中を揺るがす大スキャンダルに発展した。

 前将軍家宣の命日のことである。月光院の名代で墓参の外出を許された絵島は、法事を終えるや、当時最高級の芝居小屋山村座に直行した。総勢130人余り。座挙げてもてなされた上、茶屋での宴席は、新五郎ら役者を交え、夜更けまで続いた。

 これが発覚し、厳しい断罪が下る。裏で手引きした大奥出入りの商人を含め累は1500人にも及んだ。死罪を言い渡された絵島は、月光院の計らいで信州高遠へ流罪である。恋仲の新五郎は三宅島へ流された。程なく江戸ではやった一つが絵島節だ。

 やがて街道沿いに伝わっていく。信州では甲州街道、秋葉街道を南下し、今の飯田市上村で歌い継がれてきた。かつての上町宿にある「まつり伝承館」には、あでやかな着物姿の絵島像が飾られている。

 結局、33歳から61歳で没するまで絵島は30年近く、山深い高遠の囲み屋敷で8畳1間の幽閉生活を送ることになる。幕府の指示で食事は一汁一菜、朝夕2回のみだった。

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 三宅島に近い伊豆諸島の御蔵島にも、泣き唄「御蔵島江島生島」が歌い継がれている。こんな悲しい一節がある。

島の明け暮れ 生島様と
呼ぶは江島か 波の音

 〔大奥〕江戸城本丸の大半を占め、将軍の夫人である御台所や側室の住居を指す。いわば将軍家族の私的な空間。男子禁制で、幕府の実務を取り仕切る表の政庁からは独立して存在した。
(2016年8月20日号掲載)

=写真1=高遠の絵島囲み屋敷
=写真2=上村の絵島像
 
愛と感動の信濃路詩紀行