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115 中島紫痴郎 ~ほのぼのした笑いと哀愁と~

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老妻に化粧をすすめ笑い合う

いらいらとする日ぞ妻よ逆(さから)うな

こんな世を生きねばならぬ腕を見る
中島紫痴郎(しちろう)

    ◇

 長野電鉄の特急で湯田中に向かい、温泉街裏手の山沿いに続く一茶の散歩道を歩いた。ぶらぶら句碑を眺めながら、曹洞宗梅翁寺に立ち寄る。

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 階段を上った前庭で、お地蔵さんが足湯につかっていた。高さ1メートルほど、ぴんしゃん湯けぶり地蔵尊と称する。肩や腰などをさすると、温泉の効用が伝わり、ピンピン・シャンシャンになるのだという。

 ユーモラスな案内を読み、この地を拠点に活躍した川柳作家、中島紫痴郎のことが思い起こされた。軽やかなおかしみ、ほのぼのと人情のにじみ出る佳句を数多く残している。

 長年連れ添った妻に化粧を勧め、「いまさら何よ」と笑い合う。今日は虫の居所が悪いから逆らうなと勝手を言うのも、気心が通じていればこそだ。〈こんな世...〉の一句は、石川啄木の〈はたらけど/はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり/ぢっと手を見る〉に通じる。

 ところで川柳といえば、ことわざのように習い覚えた名句が、人それぞれの胸中にあるのではないだろうか。

 〈孝行のしたい時分に親はなし〉
 〈這へば立てたてば歩めの親心〉

 いずれも江戸時代の川柳集「柳多留(やなぎだる)」の中の傑作として、親しまれてきた。機知とユーモアを働かせ、人の世の一端を見事に切り取って見せている。

 比べて紫痴郎の川柳は、かなり趣が異なる。人を教え諭すような教訓めいたところがない。駄じゃれに走るわけでもない。言葉遊びに傾きがちな理屈っぽさでなく、一人の人間としての情感が、素直に込められている。

 紫痴郎は1882(明治15)年5月24日、新潟県南魚沼郡大崎村(現在の南魚沼市)に生まれた。本名は熊七。東京に出て医学を学び、1914(大正3)年、下高井郡平穏村(現山ノ内町)で医院を開業する。

 傍ら打ち込んだのが川柳だ。没個性的で平板に流れがちだった江戸期以来の古川柳に飽き足らず、個性の前面に出る新川柳を目指していく。詩としての叙情性、さらには文芸性の重視である。

 明治30年代、与謝野鉄幹や正岡子規らが和歌、俳句の革新に取り組んだ動きと、軌を一にしている。

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 帰りの電車に乗るため、湯田中駅に戻って気付いた。待合室のベンチが、スキー板の再利用でできている。その説明書きが面白い。板のメーカーがスワロースキー(飯山市)とした上で「仲良くみんなですわろう! どうぞお座り下さい」

 しかも地元、東小学校6年生の才覚であることに驚いた。川柳の心意気が息づいている。

 〔誹風(はいふう)柳多留〕江戸時代中・後期の川柳句集。略して柳多留。1765年から1838年まで167冊に及ぶ。初代の選評者柄井川柳の名にちなみ、川柳と呼ばれる遊戯的な庶民文芸が確立した。
(2016年9月3日号掲載)

=写真=湯田中駅前の広場
=写真=ぴんしゃん湯けぶり地蔵
 
愛と感動の信濃路詩紀行