
山ノ内町角間温泉に日本画家、横山大観(1868~1958年)の別荘兼アトリエ「嶽心荘(がくしんそう)」があった。玄関は老舗の和風旅館風で、粗削りの木柱が支える。あまり知られておらず、訪れる人も少ない。
温泉街中心のバス停から急坂を上ること50メートル足らずの高台。うっそうとした林に隠れてひっそりとあり、温泉客は気が付かないようだ。日本庭園を備えた敷地は約6000平方メートル、建物は平屋の3棟合わせて約360平方メートルもあり、その大きさに驚かされる。
角間は良い温泉だが、夜間瀬川対岸にある湯田中、渋温泉に比べると、農村地帯のイメージが強い。昭和初期の不景気な時代、何か村おこしのアイデアはないか―と、話が持ち上がった。
嶽心荘があるのは、もともと地元の浄土真宗興隆寺の所有地で、住職の薬師庵浴場があった。「当代一の人気画家に来ていただき、アトリエにしてもらえれば、いい宣伝になる」というのが、発端である。
大観や菱田春草(飯田市出身、1874~1911年)らは、岡倉天心(1862あるいは63~1913年)を指導者に、茨城県北茨城市の五浦(いづら)海岸で「六角堂」を修練の場とした。ちなみに、天心は晩年を新潟県妙高市赤倉に山荘を構え、現在は山荘跡に「岡倉天心六角堂」が建てられている。
嶽心荘の完成は1929(昭和4)年と伝えられる。建設に際して、具体化した構想を耳にした大観は「日本美術院の仲間と美術を追究する拠点にしたい」という思いを募らせた。前田青邨(1885~1977年)らを巻き込み、設計図に盛んに、修正を加えた。完成披露の宴は仲間や顧客らを集め3日間に及んだ。
しかし、大観の周辺には暗転する時代がのしかかる。嶽心荘を訪れたのは1932年が最後になった。
日本画壇のトップとして、戦争協力のリーダーになっていく大観は、自分の展覧会売上金で戦闘機数機を献納するほどだった。終戦後、戦争協力者への責任追及は厳しかった。大観は黙して弁明せず、保守勢力の支持を追い風に、日本画壇の巨匠として君臨した。

嶽心荘の前庭からは、右手に奥志賀高原の山稜(りょう)、眼下に夜間瀬川と温泉街、左手に高社山の雄姿を望める。左右の山塊から発生する雲が、朝から日没まで目まぐるしく動くさまは、舞台を見るようで飽きない。
住友財閥の疎開先になったり、戦後に旅館の別館になったりした嶽心荘は、2007年に寺の所有に戻った。建物の老朽化は目立つものの、文化的、歴史的価値は高い。地元の建築士や旅館経営者らは「有効活用プロジェクト実行委員会」をつくり活動。9月3日には、嶽心荘で二胡とシンガーによるコンサートを開いた。
(2016年9月24日号掲載)
=写真=老舗の旅館を思わせる嶽心荘の玄関