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085 プラハを巡る バーツラフ広場 ~チェコ民主化の歴史を刻む~

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 「中世の宝石」「黄金の街」「建築博物館」など、チェコの首都プラハは、枕ことばに事欠かない。歴史に翻弄(ほんろう)されたこの美しい都を、今年2~3月に訪れた。

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 プラハは、京都のように歴史がそのまま保存されているだけでなく、日本人に似た謙虚な心を持ち合わせている人が多かったことにも好感が持てた。歩き回る前に、どうしても詣でておきたい場所があった。私にとってそこは聖地であった。

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 1968年8月20日、旧ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍の戦車が大挙押しかけて、チェコ国民の自主性を奪った事件がある。

 当時のチェコスロバキアは共産政権。しかし、「人間の顔をした社会主義」をスローガンに民主化運動が広がり、表現の自由を市民は(謳)(おう)(歌)(か)していた。「プラハの春」である。

 しかし、盟主の旧ソ連はそれを許さなかった。侵攻した舞台の中心がバーツラフ広場だった。

 かつて馬市場と呼ばれた広場は、長さ750メートル、幅60メートルの大通り。突き当たりの国立博物館の前に、チェコの聖人バーツラフの騎馬像があり、すぐ近くに2つの墓碑がある=写真下。意識していないと、見落としてしまう。

 当時カレル大学の学生リーダーだったヤン・パラフが、機構軍の侵攻と弾圧に抗議して焼身自殺をした跡。69年1月15日のことだ。墓碑に残る雪を払って、彼に祈りをささげた。横に、彼を追って同様の抗議をしたヤン・ザイーツも眠る。

 侵攻に対して、市民らの一部は戦車に投石するなどしたが、大半は機構軍の兵士を優しく説得。バラの花を手渡す市民もいたという。

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 プラハ市民は、地下放送を流したり、標識を外したりして機構軍を混乱させた。標識にモスクワ行き、ベルリン行きと手書きし、「ソ連には戦車がある。チェコには自由がある」という落書きをし、チェコ人らしい静かな抵抗意思を示した。侵攻の矛盾に苦悩して拳銃自殺をした若い機構軍兵士もいた。

 それから21年後の89年、非暴力による「ビロード革命」で、チェコスロバキアは民主化を達成した。後に大統領になったバーツラフ・ハベル氏は、バーツラフ広場に面したホテルのバルコニーに立ち、熱狂する市民の前で「自由宣言」をした。この広場は、東欧民主化に弾みを付けた場所なのだ。
(高校英語講師)

=写真=チェコの民主化を象徴する舞台・バーツラフ広場
 
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