
それぞれは秀でて天を目指すとも寄り合うたしかに森なる世界
清原日出夫
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夏のにぎわいは去っている。紅葉にはまだ早い。9月下旬、標高1200メートルほどの戸隠高原は、穏やかに季節の移ろいを迎えていた。
木道が縦横に整備された森林植物園を歩く。春から初夏、遠く近くこだましていた小鳥たちのコーラスも、全く聞こえない。大小無数の樹木が、静まり返って林立している。
清原日出夫が詩心に駆られた「森なる世界」は、きっとこれではないか...。木立に囲まれているうちに、ほとんど確信といっていいほど、そう思えてきた。

まず、冒頭「それぞれは」の5文字に秘める意味が重い。「われ勝ちに」「われ先に」ではない。ともども個々に―とのニュアンスがにじみ出ている。
なるほど、その通りだ。見回せば、木々は互いに天に向かって伸びようとしている。少しでも多く日の光を浴びるためだ。だからといって、ほかの木を押しのけたりはしない。
目いっぱい枝を広げた巨樹といえども、その下に丈の低い木をたくさん抱えている。譲り合い、支え合い、共に生きる関係こそが、揺るぎのない森の世界なのだと、眼前に広がる一本一本が、説得力豊かに語り掛けてくる。
清原は1937(昭和12)年1月1日、現在の北海道中標津町に酪農家の4男として生まれた。高校時代から短歌に親しむ。立命館大学に進んで京都に住むと、京都大学のドイツ文学者で歌人高安国世の門をたたいた。
60年夏を頂点に燃え上がった安保闘争が一躍、清原を中央歌壇に押し上げる。デモや集会の真っただ中から発した臨場感と迫真性に富む歌が、角川の月刊誌「短歌」を通じて広く伝わっていった。
同時に、闘争の終息は若者たちを深い挫折感に陥らせる。「東の岸上、西の清原」と並び称せられた国学院大学の岸上大作、同郷の歌友坂田博義。2人とも相次ぎ自死する衝撃に清原は直面した。
4年後、結婚した清原は姓を改め、長野県職員佐藤日出夫となって新たな道へ踏み出す。潔い性格、誠実な人柄ゆえだろう。歌人としての活動は、きっぱり封印してのことだ。
ところが、県企業局長だった95年、明治書院の高校教科書「国語Ⅱ」に〈それぞれは〉の1首が採用される。周囲は驚いた。それほどの歌人とは、つゆ知らなかったからだ。

ようやく封印を解除し、第2歌集「実生の檜(ひのき)」の完成目前に再発した肺がんが、岸上や坂田の側に連れ去ってしまう。享年67歳。あまりの無念さに中学、高校の同級生らが郷里中標津の町中心部に歌碑を建てた=写真下。
産み月に入りし若牛立ちながら涙溜めいること多くなる
出産を控えた若い牛、生命の営みを見つめる眼差しが優しい。
〔東の岸上、西の清原〕60年安保世代を代表する学生歌人、東京の岸上大作と京都の清原日出夫。2人の存在を引き立てる言葉。共にナイーブな感性を保ち、表現力の高さが買われた。
(2016年10月8日号掲載)
=写真=戸隠の森林植物園