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192 川中島の戦い ~今も興味を引く両者の戦略

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 「真田ブーム」のおかげで、このところ何度も松代町や八幡原の古戦場案内を頼まれ、「川中島の戦い」を学び直した。武田信玄と上杉謙信の対決は5度あったというのが定説で、4回目の永禄4(1561)年の激戦がよく知られている。

 戦略や戦史として、防衛関係者の間でも興味を引いているという。作家の吉村昭や半藤一利氏は対談などで、自衛隊の参謀関係者では海自の評価が高いのが面白いと指摘している。

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 激戦は、午前7時ころ、川霧が突然晴れて、双方が相手を発見してびっくり―というところで始まる。夏目漱石に「朝懸(がけ)や霧の中より越後勢」のざれ句がある。

 陣形をどう立て直すかが焦点になる。後の世の「甲陽軍鑑」や上杉側の戦史は、武田側はツルが翼を広げたように兵を配置する「鶴翼の陣形」だった。上杉側は円のように兵を配置し、車輪が回るように攻める「車がかりの陣形」で激突したと伝える。

 火ぶたを切る前のにらみ合い状態を破ったのは、武田の海津城から上がる大量の炊事の煙だ。「敵は明日、攻勢に出る」と見破った上杉謙信は、夜半に妻女山を下り、千曲川を渡り、八幡原を善光寺方面に向かう。甲府からゆるゆると進軍してきた武田信玄は、海津城から離れた茶臼山に布陣した後に入った。

 敵の裏をかき、そのまた裏をかくのが戦いである。両陣営の行動が、興味を持たれるのは当然のことだろう。だから、古今の作家らも好みはさまざまだ。

 正岡子規は熱心な武田信奉者で、毎夜出掛けて講談を楽しんだという。推理作家の松本清張も武田派。武田信玄の合理的戦法に心情を寄せた。新田次郎や井上靖も同様だ。武将としての生きざま、信念や宗教心に賛意を示すのは、無頼派とも評される壇一雄や坂口安吾だ。夏目漱石は、クールな見方だったという。

 信州人も同様だ。「武田と上杉のどちらが好きか」と問われると、理詰めの合理派は武田。独立自尊派は上杉という見方が多いのではないか。

 川中島の戦いが関心の的になるのは、江戸時代後期の儒学者で歴史家でもある頼山陽の業績だ。漢詩「不識庵機山(ふしきあんきざん)を撃つの図に題す」で、「鞭声(べんせい)粛々 夜河を過(わた)る...」と戦いを詠んだ。

 頼山陽は名著「日本外史」で、尊敬すべき武将として13人の生きざまを美文で論じた。興味深いエピソードを重ねた講談で「筆が走り過ぎで、考証がずさん」という批判は強いものの、「比類なき精鋭」と理想の武将に上杉謙信と武田信玄を同列に挙げている。心情では謙信に傾倒した頼山陽は、信濃を侵略する風林火山(信玄)を長蛇(悪者)としている。堕落し劣化する幕府の武士を、行間でひそかに糾弾したと思われる。
(2016年10月29日号掲載)

=写真1=古戦場にある信玄と謙信の一騎打ち像
=写真2=「日本外史」の甲越二将論の一部
 
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