
語らへば眼(まなこ)かがやく処女等(おとめら)に思ひいづ諏訪女学校にありし頃のこと
まをとめのただ素直にて行きにしを囚(とら)へられ獄に死にき五年(いつとせ)がほどに
土屋文明
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坂道を上りながら振り向くと、市街地の屋根越しに諏訪湖が青く輝いている。植え込みの紅葉に彩られた通学路の先が、諏訪二葉高校の正門だった=写真下。

今から100年ほど昔の1918(大正7)年4月、諏訪二葉の前身諏訪高等女学校に、若き歌人土屋文明が教頭として赴任してきた。数え29歳。17年後、東京に移り住んでから、「某日某学園にて」と題する連作6首を詠む。
親しく語り合って目を輝かせる娘たちを見るにつけ、思い出すのだよ。諏訪の女学校に勤めていたころのことを。
続く2、3首目で芝生や木々に囲まれた白い校舎、ひたすら清き世を願う女子学生たちの姿を描く。そこから一転、深刻な現実に目を向けたのが〈まをとめの...〉で始まる歌だ。
純粋な心の持ち主であるが故、その娘はひたすら信念に生きようとし、獄につながられて死んでいった。5年ほどの間のことだ。
無念の思いをにじませた後、伊藤千代子という女性の実名を織り込んだ1首で結ぶ。
高き世をただめざす少女(おとめ)等ここに見れば伊藤千代子がことぞかなしき
高い理想の世を目指す若い女性たちを見るにつけ、伊藤千代子のことがかわいそうでならない。
こう歌う土屋文明にとって伊藤千代子は教え子だ。文明が諏訪高女の教壇に立った最初の年の入学者の中にいた。
千代子は1905(明治38)年7月21日、今の諏訪市湖南南真志野(まじの)の農家に生まれた。後に東京女子大へ進み、共産主義運動に踏み込んで獄死する。一方、土屋文明は1890(明治23)年9月18日、群馬県上郊(かみさと)村(現高崎市)に生まれている。
文明は、正岡子規が唱えた和歌革新の精神をくむ伊藤左千夫、島木赤彦、斎藤茂吉らの流れを継承。巨大なアララギ派を率いた重鎮だ。諏訪高女時代に思いを込めた6首も、「アララギ」昭和10年11月号に発表している。
そのころ時代は軍国主義へと急速に傾斜していく。2年前にはプロレタリア作家小林多喜二が、警察署内で虐殺された。京都帝大の滝川幸辰(ゆきとき)教授が大学を追われた滝川事件も起きた。自由主義にまで厳しい圧政が続く。

時流に逆らうかに獄死した女性への哀れみを歌で公にした文明である。これは容易にできることではない。教師として人間として教え子、若者に対する心根の強さ、深さだ。
諏訪湖の東南、伊藤千代子の生地、湖南南真志野の山すそに、彼女の碑がある。傍らに立てばやはり、諏訪湖が空色に光っていた。
〔滝川事件〕1933(昭和8)年、京大法学部滝川幸辰教授に対する免官処分。自由主義思想が問題視され、東京帝大の美濃部達吉元教授、矢内原忠雄教授らにも弾圧が及んでいった。
(2016年11月5日号掲載)
=写真=伊藤千代子の碑