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120 モンテンルパ ~歌声が愛憎を乗り越えた~

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ああモンテンルパの夜は更けて
  代田銀太郎作詞
  伊藤 正康作曲
モンテンルパの 夜は更けて
つのる思いに やるせない
遠い故郷 しのびつつ
涙に曇る 月影に
優しい母の 夢を見る

    ◇

 太平洋戦争が終わって7年。1952(昭和27)年になっても、フィリピンの首都マニラ郊外、モンテンルパの丘にあるニュー・ビリピッド刑務所には、109人が戦争犯罪を理由に服役させられていた。

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 遠い異国でとらわれの身となり、しかも、そのうちの74人は死刑囚である。故郷をしのぶにつけ、涙がこぼれ、母の胸が恋しい。

 2番では、日本でわが子の帰国を今か今かと待ちわびる母親の胸中が歌われる。春になってツバメを目にするたび、どうしてあの子は帰って来ないのだと、居ても立ってもいられない。子の名を呼んで飛ぶ呼子鳥(よぶこどり)さながらだ。

 作者の代田銀太郎は下伊那郡松尾村清水(現飯田市)の出身。旧陸軍で軍事警察を担う憲兵だった。昭和57年発行の「松尾村誌」によると、代田はフィリピン中部セブ島で終戦を迎えた。

 住民の反感により多くの将兵、とりわけ憲兵はほとんどが戦争犯罪者として告発され、軍事法廷で有罪判決を下される。昭和27年1月、14人の絞首刑が執行された。大きな衝撃が走る。

 募る望郷の念、なお捨てきれない将来へのわずかな望み...。日毎夜毎の思いを1編の詞に託した。代田38歳。3番はこう続く。

モンテンルパに 朝が来りゃ
昇る心の 太陽を
胸に抱いて 今日もまた
強く生きよう 倒れまい
日本の土を 踏むまでは

 劇的な展開が待っていたのは、このあとだ。愛知県出身の死刑囚、伊藤正康が曲を付ける。6月、当時の人気歌手渡辺はま子の下に、歌詞と楽譜が届いた。刑務所の教戒師の計らいだった。

 心動かされた渡辺は自ら吹き込み、レコードにする。アコーディオン奏者とモンテンルパも訪れた。特別に制作されたオルゴールが、キリノ・フィリピン大統領に届けられる。

 昭和28年7月、大統領は独立記念日に合わせて特赦を発表、全員の帰国を許した。代田が念願通り郷里の土を踏んだのは、明けて1月5日だった。

 天竜川に向けて傾斜する松尾地区。一帯を見下ろす鳩ヶ嶺八幡宮の南参道近くに立つ歌碑と対面し、坂道を下ってJR飯田線の伊那八幡駅に着いた。

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 人影のない小さな駅ながらも、かつて出征兵士が日の丸の旗で送り出された光景が目に浮かぶ。そして言葉とメロディーの力が、戦争の怨念を乗り越えたことに、しみじみ救われる思いを味わった。

 〔呼子鳥〕鳴き声が人を呼ぶかに聞こえる鳥のこと。カッコウの別名とされる。ホトトギスなどとする異説もあり、古今集の難解語句の解釈を教える古今伝授で扱われるほどだ。
(2016年11月19日号掲載)

=写真=モンテンルパの歌碑
=写真=伊那八幡駅
 
愛と感動の信濃路詩紀行