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001 ―世界へ〈1〉蚕飼いの業 ~自信と誇りを高らかに歌う~

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「信濃の国」3番
   作詞・浅井 洌
   作曲・北村季晴
木曽の谷には真木(まき)茂り
諏訪の湖(うみ)には魚多し
民のかせぎも豊かにて
五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑とりて
蚕飼(こが)いの業(わざ)の打ちひらけ
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細きよすがも軽からぬ
国の命を繋(つな)ぐなり

    ◇

 いまだに活力ある響きを伴い、信州人を引き付ける。郷土の自然の恵みと人々の勤勉さを、わずか8行で歌いきった。とりわけ〈しかのみならず〉からの後半には、格別の思いに駆り立てられる。

 「昭和20年代、農家の三男坊が高校へ進学できたのも、お蚕様のおかげ。繭の代金が入ったからこそ、親は授業料を出してくれた」(須坂市の男性)

 「繭が売れると、家族そろって町でラーメンを食べた。7、8歳の女の子だったけれど、1時間以上平気で歩いた。あれ以上のラーメンは食べたことがない」(長野市の女性)
 かつて信州信濃の国は、内外に蚕糸王国を誇った。今日、昔日の面影はなきに等しい。しかし、そう言い切るには「基幹産業としての蚕糸は」と前提をつけなくては正確でない。

 蚕が生んだ絹を材料に着物と共にある生活は、いぜん根強い。蚕のえさに欠かせなかった桑の畑は、リンゴやブドウ畑に変わった。けれども、ときには垣根代わりに桑の木が役立っていたりする。

 さまざまに装いを改めながら、いわば蚕糸文化が、底堅く命脈を保っている―。それが現実ではないだろうか。何よりも70歳前後から上の世代の中に、自ら経験した思い出がいっぱい詰まり、忘れがたく息づいている。

 「信濃の国」は1899(明治32)年6月、小学校唱歌として登場する。そのころ既に長野県は、米や麦ばかりでなく、養蚕の盛んな蚕糸王国としての地位を確立していた。

 例えば養蚕農家は明治30年、10万8千戸を数え、全農家の半数以上に及ぶ。生糸生産高の全国に占める割合は、「長野県史 通史編第7巻」によると、明治37年、2位の群馬県を大きく離し、群を抜いている。器械製糸による量産が、各地で盛んになった結果だ。

 長野市街地を眼下に大峰山の中腹を展望道路が走る。中ほどの歌が丘に「信濃の国」の歌碑が立っている。巨大な岩を生かし、銅板に刻まれた浅井洌の筆跡が今なお色あせない。

細きよすがも軽からぬ国の命を繋ぐなり

 零細な農家にとって養蚕は、一家全員で稼ぐ暮らしのよりどころだ。細きよすがではあっても、国全体では一国の命運を左右するほど重い、とたたえる。

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 躍動する文字を追いつつ、にわかに横浜港から海を眺めたくなった。鎖国から開国へ、近代日本の歩みが凝縮している。何よりも蚕糸王国の生み出した生糸が、はるばる欧米へ船出した拠点である。

一口メモ〔蚕糸業〕
 蚕種・養蚕・製糸の3分野に大別される。蚕種は蚕になる卵。それを(蚕)(た)(種)(ね)(屋)(や)が(蛾)(が)から産ませる。蚕に桑を与え、繭を作らせるまでが養蚕。繭から生糸を繰るのが製糸。

(2017年1月1日号掲載)

=写真1=整備された現在の横浜港
=写真2=「信濃の国」の歌碑