
山坂を髪乱れつつ来しからにわれも信濃の願人(ぐわんにん)の姥
斎藤 史
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落ち葉舞う山道をストック片手に登った。〈山坂を髪乱れつつ〉足を運んだ斎藤史の作歌の場に、一歩でも近づきたかったからだ。
第11歌集まで数える膨大な業績。中でも第8歌集「ひたくれなゐ」の評価は高い。そこに収められた「修那羅峠」と題する連作39首の12番目に位置する。
山の坂道を登るにつれ、髪も乱れるほど苦しい。ここまでやって来たからには、私もまた、人々の信仰する神仏に願いをかける信濃の熟年女性の一人です。

〈信州東筑摩郡修那羅峠に、土地人の刻める小さき石の像、石のほこら、かつては千二百体あまりありき。ぬすまれて今は、八百体あまり――〉
こう前書きにある。そして、ドラマ仕立てさながら1首目を切り出していく。
信濃路に霧(きら)ふ秋ぎり朝夕(あさよ)霧土俗の神らしづまりましぬ
「霧ふ」は霧が一面にたちこめること。霧に包まれて村人らの祈りを込めた石像が、静かに鎮座している...。
続けて蚕神、猫神、けもの神など稚拙、純朴な石像を、一つまた一つ丹念に歌の世界へ招き入れる。そこに紡ぎ出された一首一首が、民衆のひたすらな願望を映し出し、見果てぬ時空へ読む人を誘う。
1970(昭和45)年の秋、史61歳。緑内障で片方の目の視力を損なっていた母キクが、両方とも全く見えなくなるつらい現実に直面していた。
修那羅峠は、東筑摩郡筑北村と小県郡青木村の境にある。後に自ら記した解説によれば、史にとっては信仰というより、現世の願いがこもる石像群を見るのが目的だった。
〈ならば私は、盲(めし)いていく母の視力に少しでも明るさの残るように祈ろうか。なりふりもなく歩いて気がつけば、髪はぼうぼう、裾はわらわら〉
斎藤史は1909(明治42)年2月14日、軍人で歌人斎藤瀏の長女として東京に生まれた。10代後半から歌を詠みはじめ、ロマンの薫り豊かな作風で華やかに登場する。
ところが、36年の二・二六事件で父親は投獄、友人の青年らは銃殺される。以来、史は昭和史の暗影、生と死のきわどい相克を見据えていった。
友等の刑死われの老死の間(あひ)埋めてあはれ幾春の花は散りにけり
終戦の年の3月、信州に疎開。上水内郡長沼村赤沼のリンゴ倉庫一間に一家4

人で暮らす。慣れない野良仕事、農村の因習とも格闘する。あらゆるもの、自らの老化さえ31文字に昇華し、現代短歌の可能性を果敢に広げた。
石像たちが西日の影を引いている。〈われも信濃の...〉。一首の調べを味わうにつけ斎藤史が、信濃の人になりきったように思えてきた。それはとてもうれしいことだった。
〔二・二六事件〕昭和11年2月26日、陸軍皇道派青年将校らが国家改造などを掲げ、首相官邸などを襲ったクーデター。4日間で鎮圧される。軍部の政治支配を強める契機となる。
(2016年12月3日号掲載)
=写真=修那羅峠の坂道
=写真=さまざまな石像