
故 郷(ふるさと)
作詞 高野辰之
作曲 岡野貞一
兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷

如何(いか)に在(い)ます 父母
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思い出ずる 故郷
志を 果して
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷
◇
前々から最終回は「故郷」と決めていた。詩の舞台を訪ねる旅を締めくくるには、ほかに考えられなかった。
作詞者高野辰之が生まれた中野市豊田へ向かう。千曲川の支流斑川沿いをさかのぼった。フナ釣りなど楽しんだ「かの川」である。
人里に近い大平山や熊坂山、遠くに際立つ斑尾山(1382メートル)。これらの山々が、ノウサギ狩りで野原を駆け巡った「かの山」だ。当時とは随分変わったのだろうと想像するその先に、橋脚を林立させて一直線に延びる上信越自動車道が現れる。
高野の誕生から既に140年。故郷の変容ぶりを象徴する。千曲川を挟んで新幹線も走る。かつては荷車、人力車の時代だった。
1876(明治9)年4月13日、高野は旧下水内郡永田村永江の農家の長男に生まれる。父仲右衛門は、常に礼節を重んじ、「裃(かみしも)仲右衛門」の異名を持つほどの堅物だった。
飯山市の下水内高等小学校に進んだ辰之少年は、往復16キロを歩いて通う。心配した母いしは、手間暇を惜しまず1日1足、足に結びつけて履く草鞋(わらじ)を編んでやった。〈如何に在ます 父母〉と歌う両親は、そんなふうに強く、優しかった。
とはいえ、雪深い冬は通えない。飯山市内の真宗寺に下宿する。見込まれて後に、住職の3女つる枝と結婚した。人力車に乗れるくらいの男になる―。それが条件だった。
1914(大正3)年6月、「故郷」は卒業を控えた尋常小学唱歌第6学年用として世に出る。〈志を果して いつの日にか帰らん〉。その通り努力を重ねた高野は、やがて東京帝国大学から文学博士の学位を授与される。
晴れて故郷に錦を飾った輝かしい歩みと合わせれば、唱歌「故郷」は、立身出世の成功物語と言えなくもない。同時に志を抱くこと、夢をはぐくむことの大切さも指し示している。
そうでなくては100年もの長きにわたり、これほど多くの人たちに親しまれ、歌い継がれるはずもない。

人には人それぞれの希望がある。志や夢に結びつく故郷がある。思い描く内容は異なっても、声を合わせて歌う時、故郷につながる心では一体となる。
帰り道、千曲川の土手に立った。川幅いっぱいに水は清く、大自然の永遠を宿し、ゆったりと流れ下っていた。
〔高野辰之と岡野貞一〕明治42年発足の文部省小学校唱歌教科書編纂委員16人。高野と鳥取県出身の岡野貞一は名コンビを組んだ。「故郷」をはじめ「紅葉」「春が来た」などが今も歌い継がれる。
(2016年12月17日号掲載)
=写真1=変わる「故郷」の舞台
=写真2=飯山市の真宗寺