
佐久市岩村田は、江戸時代、岩村田藩の城下町として、また中山道、善光寺道、佐久甲州街道、下仁田道が交わる宿場町としてにぎわった町だ。
北陸新幹線佐久平駅でJR小海線に乗り換え、一つ目の駅が岩村田だ。駅から東へ約500メートル歩き、かつての宿場町である岩村田商店街に着いた。ビルが並び、宿場の面影を見ることはできない。商店街を貫く県道9号線は幹線道路で、車の往来が激しい。

「佐久市志」によると、江戸時代、岩村田は幕府領だったが、1703(元禄16)年に旗本の内藤氏が転封されて岩村田藩が成立した。しかし、一国一城令のため城は建てられず、「陣屋大名」と呼ばれた。宿場には本陣や脇本陣は置かれず、宿の数は最盛期でも8軒だったといわれる。反物、荒物、古着などの店が多く、「物資の交差点」だった。
商店街を北へ歩くと、右に龍雲寺がある。立派な山門に武田家の家紋「武田菱(びし)」、境内の奥に武田信玄の霊廟(れいびょう)があった。寺の東には、中山道以前の古道があり、南へ下って東へ曲がると、小高い丘。鎌倉時代から室町時代にかけて岩村田を治めた大井氏の居城「大井城跡」だ。
大井氏は甲斐小笠原氏から分かれ、初代朝光(ともみつ)が佐久領を知行。「一遍聖絵」によれば、息子の大井太郎(光長(みつなが))は1279(弘安2)年、佐久を訪れた時宗の僧一遍を館に招いたという。百余人の僧や民衆が交じって、三日三晩踊り念仏をし、ついに館の床を踏み抜いてしまったという。その場所は特定されていないが、浅間山を背に大勢が踊った姿を想像すると、ほほ笑ましい。
城跡は公園になっているが、人影もなく静かだ。江戸時代、岩村田の郷土史家、吉沢好謙(たかあき)が記した「(四鄰譚藪(しりんたんそう)」によれば、大井氏の岩村田には6千世帯もの家があった。しかし、1484(文明16)年、坂城の村上氏の侵攻で、城も町も灰じんに帰した。
大井城跡の王城公園から南に下り、昔ながらの家並みが残る旧下仁田道を東へ進む。湯川の断崖に横長の神社が見えた。日本五大稲荷の一つとされる「鼻顔(はなづら)稲荷神社」だ。2015年4月の竜巻で壊れた屋根が、修繕されて真新しい。毎年2月11日の「初午(はつうま)祭」にはダルマ市があり、多くの人でにぎわう。

最後は岩村田城跡へ。幕末の藩主、内藤正縄(まさつな)は京都伏見奉行の功により城主格の大名に昇格。孫の正誠(まさのぶ)が1864(元治元)年、岩村田城を築城したが、明治維新のため、わずか7年で取り壊されてしまった。今は岩村田小学校が建ち、辺りは閑静な住宅地だが、幾つものL字形の道に町割りの痕跡を垣間見ることができた。
初めて訪れた岩村田は、幾つもの歴史ドラマが眠る町だった。
(森山広之)
(2017年1月14日号)
写真上=岩村田城跡から見た大井城跡(中央の林)。同下=湯川が侵食した崖に立つ鼻顔稲荷神社