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002 ―世界へ〈2〉細い糸の力 ~鎖国から開国へ弾みをつけ~

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文部省唱歌
尋常小学校第6学年
「国産の歌」4番

米と麦とは全国に
製茶は静岡三重京都
農産収入何あれど
小さき虫の吐出(はきいだ)す
生糸は無二の輸出品
養蚕業の盛大は
長野埼玉さて群馬
海なき県に著し
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    ◇

 主食として国民を支えるコメや麦は、全国で作られている。味や香りを楽しむ茶は静岡、三重、京都など暖かい地域でできる。

 あれこれあるけれども、小さな虫が吐き出す生糸こそ、並ぶもののない輸出品だ。その養蚕業は長野、埼玉さらには群馬、海のない県で盛んである―。

 1914(大正3)年6月、文部省が発表した尋常小学唱歌第6学年用20曲の中の一つだ。

 これより5年前の09(明治42)年、日本の生糸輸出量は、既に上回っていたイタリアに続き、中国(当時の清)をも追い抜く。文字通り世界1の座に躍り出た。

 その機関車役として唱歌でも、長野県は筆頭に挙げられた。十州に境連ねる信州が、細い糸を通じ、広く世界につながったのだ。

 当時の先人たちの活力に促され、新幹線で横浜へ長野駅をたつ。乗り継いで3時間余り、もう港だ。蚕糸王国への道を歩み始めた明治の初め、海なし県の生んだ生糸は、はるばる馬の背や荷車で運ばれた。隔世の感を深めつつ、開港広場に着く。

 今から160年ほど前の1854(嘉永7)年1月、米国の東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが、7隻の黒船を率いて上陸した場所だ。「日米和親条約締結」の記念碑に歴史が宿る。

 さらに2隻を加え合計9隻の軍艦が、有無を言わせぬ圧力で開国を迫った。200年以上に及ぶ鎖国から開国へ、江戸幕府は踏み切らざるを得ない。

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 5年後の59(安政6)年6月2日、横浜など3港が開かれ、本格的な貿易が始まる。(堰)(せき)を切ったように輸出され出したのが生糸だ。開港7年目、65(慶応元)年の状況を金額でみると、8割まで生糸が占める。確かに〈生糸は無二の輸出品〉だった。

 広場に接し横浜開港資料館がある。最大の輸出先、英国の商社が置かれた跡に建つビル2・3階は、蚕の飼育もするシルク博物館だ。遠く際立つ巨大な赤レンガ倉庫2棟は、文化・商業施設に変身して観光客の人気が高い。

 港周辺には、近代的な建物の間に生糸貿易の名残をとどめる遺産が散在する。探し当てたのが開港と同時に進出し、生糸輸出の先陣を切った上州の商人、中居屋重兵衛の店舗跡だ。

 重兵衛は幕末の開明思想家、松代藩の佐久間象山を師と仰ぎ、先見性を培った。象山の存在が浮かび上がるとなれば、おのずと胸が高鳴ってくる。

一口メモ〔生糸〕
 「なまいと」とも呼ばれ、絹織物になる前段の製品。まだ肌触りが少し固く、繭糸に含まれた接着役のセリシンを除く精錬の過程を経て、しなやかな絹糸に変わる。
(2017年1月21日号掲載)

=写真=横浜の開港広場
=写真2=中居屋重兵衛記念碑