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02 わが家の歴史 ~和田郷「草分け百姓」古文書に先祖の名前

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 私は1949年、井原幸男とたきの長男として、西和田に生まれました。井原家の総本家34代目になります。井原家の先祖は、和田郷を開墾した「草分け百姓」といわれています。

 和田郷は古く、鎌倉時代の日記文学「とはずがたり」には、後深草院の女房二条が和田郷高岡の石見入道宅から善光寺に参詣したことがつづられています。その後、1466(文正元)年、「信濃文正の変」により、将軍足利義政が、和田郷を治めていた高梨氏を征伐してこの一帯を占領。これにより、この年の諏訪社御柱の頭役を西和田が単独で勤仕(ごんじ)することに。それから550年後の昨年もまた、和田神社で御柱祭が行われています。
茂兵衛を代々名乗る

 西和田区の所蔵文書の中に、1671(寛文11)年に善光寺や上松村などが西和田村に出した和解文「新堰村定置文(しんせきむらさだめおきふみ)」があり、西和田村の代表者として8人の名前が記されています。

 ここにみえる「茂兵衛」がわが家の先祖で、茂兵衛を代々名乗ってきました。代表者は草分け百姓であることが多く、「小左エ門」は15世紀後半の文明年間からつづく名乗りのようです。

 和田神社の隣に今もある地蔵堂に「鼻取り地蔵伝承」というのが残っています。

 17世紀、寛文年間のころ、田植えの時期に馬の鼻取りをする若い人がいなくて困っていたところ見知らぬ人がそれを引き受けてくれた。茂兵衛さんがお礼をしようとしたところ姿はなく、泥の足跡を追っていくと、それはお地蔵さんまで続き、お地蔵さんの袖が泥でぬれていたという伝承です。

 それで茂兵衛さんは、お地蔵さんをますます信仰して、地蔵堂に奉納された縁起絵額には先祖の名前が書いてあります。このように、茂兵衛に関する資料が複数残っているのです。

 江戸時代後期の文化、文政期から慶応年間には、在村の漢方医を務めていました。井原道伯といい、息子の晋斉は、松代藩から医家の独立免許制度である「一本証文」をもらっていました。
総本家の役割

 祖父の父である良之助は華道の師範で俳句もやっていました。祖父の武雄は東京に出て鉄工所を経営。その子で私の父幸男は浅草生まれでしたが、1923(大正12)年の関東大震災で、鉄工所をやめて帰郷します。華道の師範は継承し、能楽の梅若観世流師範をずっとしていました。これがわが家の歴史です。

 西和田の草分け百姓で井原の総本家であるというのは、お年寄りや庵主さん、周りから幼いころからずっと聞かされました。お花と謡、俳句は家の芸としてありました。村の中で、宴会の時には謡を出さなければいけなかったし、父は結婚式などの行事には、庭の花を折って花を生けに行っていました。

 私は謡を父から教わっていません。けれども、「門前の小僧 経を習う」で、覚えた謡というのは、室町時代から続く芸能なので、歴史の役に立っています。能も花もだめですが、その分、父の「出は忘れるな」の遺訓は守っているつもりです。
(聞き書き・中村英美)

=写真=茂兵衛の名が記されている「新堰村定置文」