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003 ―世界へ〈3〉世に先んじ ~信州上州横浜結ぶ先見の明~

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朝日さす家に目ざめぬ
 世に先んじ
中居屋重兵衛
  生れしその家
       文明

    ◇

 横浜が開港するや真っ先、生糸貿易に乗り出した中居屋重兵衛。生家の庭に、こう4行書きで明治・大正・昭和の歌人、土屋文明の歌を刻んだ碑が立つ。

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 朝日が差し込む家に滞在していて、目を覚ました。時代に先駆け、活躍した中居屋重兵衛の生まれた、まさにその家である―。

 文明の胸中には、江戸末期の激動下を駆けた郷土の先輩に対する尊敬の念があったのだろう。「世に先んじ」の一言が、それを物語る。時代を切り開いたことへの賛辞だ。

 文明自身は1945(昭和20)年5月、空襲で東京の自宅を失い、翌6月、群馬県吾妻郡原町(現・東吾妻町)川戸に疎開した。その地で成った歌集「山下水」の一首である。

 〈七月二十九日嬬恋村三原〉と前書きがあり、5首連作の4番目。吾妻川沿いをさかのぼり、旅館を営む重兵衛の生家に泊まった。「朝日さす」に戦火を逃れた身の安らぎがにじむ。歌碑とは「居」の1字が異なり「中井屋」の表記を用いている。

 1820(文政3)年、重兵衛は上州中居村、現在の吾妻郡嬬恋村三原に生まれた。幼名武(ぶ)之助。中居屋重兵衛は横浜に進出してからの屋号で、通称が黒岩撰(せん)之助。父親幸右衛門は名主を務める素封家、火薬の製造法を家伝とする家柄に育った。

 横浜開港の直後に生糸貿易の拠点とした重兵衛の店舗跡を訪れ、生家をはじめ、三原の周辺を自分の目で確かめなければ...と思った。間を置かず、上田側から県境の鳥居峠を越え、吾妻川の左岸を下る。そこが嬬恋村だ。

 南に浅間山、北に本白根山、二つの火山の間を東西に走る国道144号。ここから北に万座ハイウエー、南に鬼押ハイウエーが延びている。交通の要だ。万座側へ河岸段丘の急坂を上ると、生家跡があった。

 国道端には「中居重兵衛之碑」と大書した石碑が立つ。傍らの由来書きに、▽砲術を佐久間象山に学んだ▽尊皇開国論を主張し、強力火薬を発明した―などが記されている。

 20歳で江戸に出ると、最先端の科学知識を通じ人脈を広げた。日本橋への出店で弾みをつけ、横浜へ飛躍する。開国開港の情報に接し早速、一等地に間口30間(約54メートル)もの店を構えた。

 このころ水田の乏しい信州、上州などでは養蚕熱が高まりつつあった。山間地でも現金収入に結びつく新たな商品経済の胎動だ。

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 農民の手作業による生糸が、重兵衛はじめ横浜の商人の下に集められ輸出されていく。信州が蚕糸王国へ向かう歯車が、大きく回り始めたのだった。

一口メモ〔嬬恋村の硫黄〕
 本白根山のふもとで江戸時代半ばから「拾い硫黄」など小規模の採掘がされていた。幕末に黒船の脅威が高まるにつれ、火薬の原料として需要が増大している。
(2017年2月4日号掲載)

=写真1=嬬恋村の中居屋重兵衛生家の跡
=写真2=重兵衛碑
=写真3=横浜の中居屋重兵衛店を描いた図絵