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004 ―世界へ〈4〉開国進取 ~開港を素早く生糸輸出に~

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象山佐久間先生の歌
      高野辰之作詞
    信時 潔作曲

識見高邁(こうまい) 高所に立ち
寄せ来る波を 見下ろして
開国進取を 唱えたる
象山佐久間大先生

三十にしては一天下 四十にしては五大州
それに繋(かか)わる 我が身とぞ
覚(さと)りて叫ぶ 大丈夫

    ◇

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 「春がきた」「故郷」など文部省唱歌の作詞で名高い高野辰之が、幕末の開明思想家
佐久間象山をたたえる歌も作っていた。全部で4番まである。

 優れた判断能力、気高い精神、大所高所から時代の潮流を見定め、開国進取の路線を唱えた―と。

 冒頭から褒め言葉が連なる。とりわけ「開国進取」の4文字に注目したい。鎖国から開国へ象山が果たした役割を、高野も重くとらえている。

 もう一つは「五大州」である。5つの大きな大陸、つまり全世界を指す。30歳では日本のことを考え、40歳になって世界を相手にするのが自分の使命と悟った。そこまで考える象山のことを高野は、大丈夫=立派な男子と高く評価する。

 同様の趣旨は象山自身が、吉田松陰の密航事件に連座して捕らえられ、獄中で自らを省みる著作「省けん録(せいけんろく)」で述べている。

 長野市街地と松代町を結ぶ路線バスで八幡原史跡公園前を通るたび、公園内に高々と立つ銅像は誰か、気になっていた。途中下車して見上げれば、羅針盤に手を添えて立つ象山のブロンズだ。

 裏側に「象山佐久間大先生」の題で歌詞が刻んである。「昭和十三年象山神社建立記念に文学博士高野辰之作詞」とも記されている。

 穏やかな高野の文部省唱歌に比べ、ここでは勇壮剛健の調子が強い。3年後には太平洋戦争、軍歌調が優勢な時代風潮と無縁ではあるまい。

 藩主松平忠固(ただかた)が開国論者だった上田藩は、1859(安政6)年6月2日の横浜・函館・長崎3港開港前から、上州中居村(現・吾妻郡嬬恋村三原)出身の商人、中居屋重兵衛と生糸輸出に備える打ち合わせを江戸で重ねていた。

 昨年10月発行の阿部勇編著「蚕糸王国信州ものがたり」(信濃毎日新聞社)によると、開港後20日足らずの6月19日には、上田産の生糸が横浜の中居屋でイギリス商人の手に渡っている。これが日本で最初の生糸輸出だった可能性が高いというから興味深い。
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 素早い対応ができたのも、開国進取の気風が浸透していればこそだ。開港当初の文久年間(1861―1863)横浜に持ち込まれた生糸の8割近くが東北・関東・甲信地方の産だっ
た。

明治時代に入って信州は、蚕糸王国への歩みを加速し、大きく抜け出していく。

一口メモ[売り込み商]
売り込み問屋。開港した港には外国人居留地が設けられた。そこの外国商館を相手に、日本人の売り込み商が、各地から生糸を買い集めて売り込んだ。
(2017年2月18日号掲載)

=写真1=視線を遠く、象山像
=写真2=生糸輸出を担った横浜の倉庫