す商いをする店が軒を並べた。今でいえば、東京・築地市場の場外を思わせるような様子だったろうか。
中央通りを北上して、仁王門から右に折れた東側。えびす講で知られる西宮神社から武井神社にかけて、東之門、伊勢町、岩石町、横町、東町などの辺りだ。縦横に小路が走り、商店や住宅、マンションが密集している。
北国街道の一部だった相ノ木通りが入り込み、江戸時代後半から物流の要衝として栄えた。
穀物や野菜だけでなく、日本海からの魚介類が運ばれ、魚屋さんが軒を連ねた。戦後も、冷凍設備が十分でなかった1960年代ころまで、もっぱら塩漬けや日干しの魚が商いの中心だった。地下に氷室を備え、荷運び専用の自転車に魚を入れたトロ箱を積み上げ、注文に応じて、家々などに届けていた。
「裾花川から分かれて参道を横切る鐘鋳(かない)川に沿った通りは、にぎやかなメインストリートだった。金物や洋品店や時計店、飲食店から和菓子店、いろいろな職人の店などがあり、日用品がそろう町でもあった」。1962年に近くで生まれ、育った柳沢卓三(たくみ)さん(接骨・鍼灸(しんきゅう)院経営)はこう振り返る。
柳沢さんの曽祖父は越後(新潟県)から魚を運んでいて、地元の娘だった曽祖母と結婚したという。この辺りには、わが家のルーツは新潟県直江津、高田―というお年寄りも多い。
善光寺門前町は地元以外の人が働きに出てくる場所でもあった。仏具店の女性は「御開帳や忙しい田植えシーズンに仕事に来て、見初められた」と話してくれた。
この辺りで目を引く一つが、裏岩石町通りにある六地蔵だ。尼寺梅林庵の遺物である。近くの人に聞くと、年長の大庵主(あんじゅ)さんと若い庵主さんがいたが、2人とも亡くなったといい、今はぽっかりと空き地になっている。
梅林庵の由緒を記した碑文には、1847(弘化4)年の善光寺地震で多くの家族が犠牲になった「うめ」という女性が菩提(ぼだい)を弔うため、仏門修行をして庵を結んだ―とある。六地蔵は、門前の町並みと人々の生と死を見続けてきたのだろう。
小路をぶらぶら歩いていると、小さな神社や庵をはじめ、歴史を感じるさまざまな出合いがあり、タイムスリップしているようだ。商業面でドーナツ化現象が指摘されてきた門前町だが、便利で静かな環境に引かれて、一度は郊外に出た息子や娘が最近帰ってきたという例が多いという。
(2017年2月25日号掲載)
=写真=尼寺梅林庵跡に残る六地蔵