
伊那市高遠町へは、JR飯田線の伊那市駅からバスで25分ほど。「高遠駅」で降りる。「駅」は、大正時代に計画され、未着工のまま立ち消えになった「高遠電気軌道」の終着駅予定地だった。小さなバスターミナルだ。
「駅」がある西高遠は、高遠城の城下町。そば店やまんじゅう店、酒蔵など、白壁、瓦ぶきの建物が軒を連ねる。通りを500メートルほど東へ歩いて高砂橋を渡ると、高遠城址公園の山がある。

高遠城は、西と南に面する川から約80メートルの絶壁が立ち上がる、中世の戦略拠点にふさわしい要害だ。武田氏の南信州支配の拠点だった1582年、織田氏の侵攻で城主だった信玄5男の仁科五郎盛信が奮戦。討ち死にした逸話が知られる。
江戸時代に入り高遠藩が成立すると、藩庁に。明治の廃藩置県で廃城後、旧藩士らが桜を植え、全国から毎年数十万人が訪れる名所になった。1500本の桜があるというが、まだつぼみも小さく堅いこの時期、園内に歩く人の姿はなかった。
近くに歴史博物館がある。残念ながら3月23日(木)まで長期休館中だが、庭にある2代藩主保科正之(1611~72年)の石像は見ることができる。
正之は2代将軍徳川秀忠の庶子としてひそかに生まれ、7歳で保科家の養子に。少年時代を高遠で大切に育てられ、21歳で3万石の藩主になった。秀忠の子であることが公になると、異母兄の3代将軍家光に認められ、山形藩20万石、さらに会津藩23万石に栄転した。4代将軍家綱の補佐役にもなり、藩や幕府で善政を敷いた。なお、保科氏は長野市若穂保科が発祥の地だ。
高遠町内には、「名君保科正之公の大河ドラマをつくろう」と染め抜かれたのぼり旗が掲げられている。伊那市観光協会などの「つくる会」が署名集めなど招致活動をしている。

高遠城の周囲は斜面ばかり。戦国のころはともかく、ここに近世の城下町を築くのは大変だったと想像させる。今も商店や家が、狭い斜面にひしめく坂の町だ。
城下町らしく寺社も多い。圧巻は、歴代城主が厚く信仰したという鉾持(ほこじ)神社。参道の急な石段は300段。息が切れる。毎年2月11日には「だるま市」が開かれる。
昼食は「高遠そば」にした。焼きみそと辛味大根、ねぎで食べるのが特徴だ。そば好きだったという保科正之が会津若松に持ち込み、高遠では廃れたものの会津若松に伝わっていたのを19年前、高遠へ「逆輸入」したという。甘辛い焼きみそが素朴な味わいだった。
(竹内大介)
(2017年2月11日掲載)
=写真上=「高遠駅」という名のバスターミナル
=写真下=歴史博物館の前庭にある保科正之像