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005 ―世界へ〈5〉時代を読む ~村里に養蚕が招く変革の風~

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さまづけに育(そだて)られたる蚕(かいこ)哉(かな)

たのもしや棚の蚕も喰盛(くひざかり)

村中にきげんとらるゝ蚕哉
     小林一茶

          ◇

 江戸時代の終わり近く、俳諧一筋に生き、庶民の哀歓を17文字に刻んだ小林一茶。あらためて年譜をたどると、1827(文政10)年11月19日、65歳で死去している。
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 横浜開港を起点に日本が近代化に向け、世界の荒海へ乗り出す32年前に当たる。佐久間象山はこの年、17歳だ。松代藩家老で儒学者・朱子学者、鎌原桐山の学塾「朝陽館」で漢詩文などの勉学に励んでいる。

 それぞれに一家を成し、傑出した存在を歴史にとどめた2人である。10数年の短い間ながらも、激動する時代に向け時空を共有した。後の世に励ましを届ける足跡に、今更ながら感慨がわく。

 一茶は一茶で、身の回りに容易ならざる時の流れが兆しつつあることを敏感に感じ取っていく。この点を重視する歴史学者、青木美智男氏(日本近世史)は、一茶について「時代をよむ俳諧師」と位置づけた。

 世の中の新たな鼓動を一茶がとらえた裏付けとして、青木氏は〈さまづけに育られたる〉をはじめ、蚕を詠んだ一連の句を挙げる。

 「お蚕さま」と最高の敬意を込めて呼ばれていた。たのもしくも飼育用の棚では、蚕たちがもりもり桑を食べている。村中の人が桑摘みをするなどして、大切に大切に、蚕の機嫌をとった。

 米や麦の穀物だけでなく、現金収入に結びつく養蚕に、挙げて力を入れる。自給自足から売買が目的の商品経済の浸透は、農村社会に富める者と貧しい者との格差を生じさせていった。

白壁の里みくだしてかんこ鳥

 白壁を巡らせた豪壮な家が、村里を見下すように構える。里人は、出稼ぎにでも行ったのだろう。周囲に人気がなく、ひっそりとして寂しい。

 15歳で江戸へ奉公に出た一茶は、帰郷後55歳までの間、都合13回、江戸と柏原宿の間を往復した。江戸―軽井沢の追分宿を中山道、追分―柏原の間を北国街道。これが主なコースだ。

 道々、例えば中山道の深谷、本庄、新町など武州、上州の養蚕地帯。信州に入れば北国街道沿いの小諸、上田と蚕の本場を通過していく。

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家(や)うちして夜食あてがふ蚕哉

家内(やうち)、つまり家中で、家族みんなで夜中まで桑を与え続ける。多忙な農家の働きぶりに一茶は、養蚕が新たな時代を切り開く姿を予見していた。

一口メモ[中山道・北国街道]
 中山道は江戸時代の5街道の1つ。江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由でつなぐ。同時に、北国街道と結んで日本海に通じる重要な路線だった。
(2017年3月4日号掲載)

=写真1=上州・倉賀野宿を通る中山道(右)
=写真2=雪の中に立つ柏原宿の一茶像