
私が小さいころ、小学生くらいまでの善光寺平は田舎で、家の周りは見渡す限り田んぼが広がっていました。隣村の家もほとんど見えないし、北の三登山まで全部田んぼ。全くの水田地帯でした。今は、家がたくさんできてみんなの団地のように感じるくらい大きく変わりました。
戦後のベビーブーム期に生まれた私たちは「団塊の世代」と言われます。小学校も中学校も、次から次へと学級がどんどん増えていく時代。新しい中学校もできて、私は古牧小から開校3年目の三陽中に進みました。
子どものころの古牧、西和田には鐘鋳川堰(かないがわせぎ)と六ケ郷用水(ろっかごうようすい)をきれいな水が流れていて、フナやメダカ、ホタルがたくさんいました。

越後の早乙女さん
一帯は水田と麦の二毛作が中心で、田植えのころになると、越後から「早乙女さん」と呼ばれる女性たちが村にやってきて、田植えを手伝ってくれました。苗を育てたらすぐ田んぼに植えないといけないので、村の農家に一斉に2、3人ずつが来て、3日ほど泊まって田植えをしていってくれました。幼心に毎年楽しみにしていました。
村祭りだったり、諏訪神社の御柱だったり、子ども相撲大会や陣取り、川中島合戦など、当時は子ども同士でいろいろな遊びをつくりました。これらが後に自分の研究テーマにつながります。
かつてこの辺一帯は皇室や摂関家ゆかりの故地になっていて、平安時代には年貢を京都に納めていました。大学に行ってから知るのですが、なぜこんな場所から京都へ行くのか。農村の年中行事も研究テーマになりました。育った環境と関係しているように思います。
古牧小の高学年になって、1年間ですが、上條素山さんという習字の先生が担任になりました。先生は、書家で文化功労者の上條信山さんの弟子でした。そんな出会いから、大学まで信山流書象会の書を学びました。ここで行書や草書にふれたことが、後々古文書や墨蹟(ぼくせき)、典籍で、それが真筆か追筆かや、筆跡を見分ける感性を養うのに大いに役立ちました。
終の棲家は田舎で
もう一つ、小学校の思い出で記憶にあるのは、5、6年生合同の演劇で出演した「北風のくれたテーブルかけ」の話です。北風が吹けば吹くほど、旅人はコートを脱がないけれど、太陽の暖かさで手放す。世の中の道理と反対のことが、むしろ大切なことなのだ。そういう世界があるのだなあと強烈な印象として残っています。
三陽中では軟式テニス部に入り、生徒会で放送部長をやらされました。中学校の周りもやはり田んぼだらけ。一面にレンゲソウが生えていたことを覚えています。
先日、区長会の後、飲み会の席で隣に座った人から、私の名前を出して知っているかと聞かれました。「自分だ」と話した途端に、相手の子ども時代の面影がよみがえり、50年の時間が一瞬のうちに蒸発するという体験をしました。子ども時代の思い出は不思議な力を持っているのだなあと感じました。「終(つい)の棲家(すみか)は田舎で送れ」という先人の言葉は本当だとあらためて思いました。
(聞き書き・中村英美)
(2017年3月4日号掲載)
=写真1=小学5年の時 県展入選の習字
=写真2=古牧小近くの田んぼで友だちとレンゲを摘む私(真ん中左)