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05 大学時代 ~歴史学専攻を選ぶ 信濃史料も要因に~

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 静岡大学人文学部では、国文、哲学、歴史から専攻を選ぶことになりました。3つから何を選択するのか、一番苦しんだところです。

 新制大学だったので、旧制高校の大岩校舎と、新制の大谷校舎という2つの場所で授業がありました。これは面白くて、大岩校舎は、竹千代時代の徳川家康が人質になっていた臨済寺のすぐ隣、山手のとてもいい所でした。大谷校舎は、日本平のすぐ近くの海辺にありました。

 山と海の風光明媚(めいび)な環境で勉強できたのですが、静岡市の東北と南に、本当に離れていました。両極端な所で生活すると同時に病気だったこともあり、臨済寺の座禅に毎月通いました。倉田禅師という人が座禅会を主宰していて、保守的な風土がありました。

マルクス主義が全盛
 人文学部に鈴木安蔵という先生が来ていました。日本国憲法の生みの親で、映画にもなったような先生です。戦前は「赤」と言われ、革新的な人だったことから、職がなかった。学生が静岡大学に呼んだとされていました。

 静岡は学生運動が盛んで、入学したころから大学紛争がありました。全共闘と全学連の2派が対立していて、私が入っていたクラスの自治会連合が仲裁に入るみたいなパターンができていました。この活動をしながら、マルクス主義哲学や唯物史観に目覚めていきます。

 それで、最初は国文をやろうと思いました。マルクス主義が貧乏人や非人間的な社会問題に、極めて優れた問題提起をしているということが自分にも理解できましたから。

 けれども、共産主義というのになじめず、しっくりきませんでした。国文ではこのころ、歴史学派という新しい研究潮流があり、マルクス主義的な国文学研究が盛んでした。哲学はマルクス主義哲学が全盛の時代。最後に残ったのが歴史でした。これが、学問としての歴史学を専攻する一番の要因になりました。

 それともう一つ、当時、明治維新百年と自由民権運動百年で、全国の自治体で都道府県史を編纂(へんさん)する活動が進んでいました。長野県ではこのころには「信濃史料」が刊行されていて、大学生になって定期購読を始めていました。

 信濃史料編纂会は信濃毎日新聞社の建物の一角にあり、ここで編纂に携わっていた米山一政さんと出会い、交流したことが大切な思い出になっています。

 大学生のころは、新しい史料を発見して、それを読み込んで史実を明らかにするのが歴史学だと教わっていました。だから、新史料があれば歴史が書けると思っていました。

興味は出会いの中で
 でも、それは今から見れば、幼稚な初期段階で、歴史小説家と歴史研究者の区別があいまいな段階なのですが...。信濃史料を見れば何とかやっていけるのではないかと思ったことも歴史学の専攻につながりました。

 卒論は、古代から鎌倉時代まで、史料に頻出する「雑色人(ぞうしきにん)について」。さまざまな雑事に携わってきた人たちですが、私は何でも人のためになる役割を持った人というイメージで取り組みました。しかし、実際には、被差別民から身分の高い人まで多様で、答えが一律にはいかない世界でした。

 高校大学と、人との出会いの中で、進路や病気に悩んでたくさんの読書に興味を持つよう仕向けられたのは運がよかったのだと感じます。
(聞き書き・中村英美)
(2017年3月18日号掲載)

=写真=静岡市の臨済寺の前で、大学生時代の私
 
井原今朝男さん