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006 ―世界へ〈6〉誇りも高く ~富岡から松代へ技と夢と~

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 いと車とくもめく(ぐ)りて大御代の富をたすくる道ひらけつつ
      昭憲皇后

    ◇

 〈糸車が勢いよく回っています。回り回るにつれ国の豊かさの盛んになる道が、開かれていくのです〉

 明治天皇の妃、昭憲皇后は歌に長じていた。上州に官営富岡製糸場ができると、天皇の母英照皇太后と一緒に視察される。その折に詠まれた歌である。

 1873(明治6)年6月24日。操業を始めて1年にもならないころだ。生糸の輸出促進を見据え、西洋式器械製糸の導入に国を挙げて期待が大きかった。

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 これより3カ月近く前の4月1日、信州松代から娘たち16人が、富岡製糸場に入場した。近代製糸の技術を習い覚え、松代で計画されている製糸工場に、役立てるためである。

 熱い期待を背負って約1年3カ月、フランス式の技を習得した彼女たちに、帰郷の時がやってきた。富岡に比べ貧弱とはいえ、松代にも器械製糸「六工(ろっこう)社」が立ち上がり、先端技術を身につけた工女を必要としたからだ。

 病気などで途中退場した2人を除く14人が碓氷峠を越え、北国街道を小諸、田中、上田と進む。明治7年7月12日、屋代の本陣で身支度を整えた。

 ここから千曲川の東側をたどれば、9キロほどで松代だ。なんと玄関前には、17台もの人力車が用意されている。付き添いの3人が加わり、華やかにパレードが始まった。

 雨宮を過ぎ、土口に差し掛かると、両側にできた人垣の向こうで六工社の経営陣が、羽織はかまの礼服を装い、出迎えている。

 富岡での伝習をリーダー格でこなした横田(和田)英は、後に「富岡日記」を著し、近代器械製糸の草創期をどう乗り越えたか、生き生きと書き残した。その素晴らしさは、六工社に移ってからの「富岡後記」で一段と輝く。

 こんなことがあった。富岡流の器械製糸では繭から取れる生糸の量が、旧来の人力による座繰りより少ないという経営者の間の不満である。実際に座繰り式に戻す動きが生じるや、富岡帰りの工女たちは猛然と反発した。

 先頭に立って横田英が力説する。ならば横浜で、外国人商人がどちらを高く買うか見届けてほしい、と。軍配は器械製糸に上がる。外国人が即座に高値で買い取った。

 いま富岡製糸場には、皇后皇太后行啓の記念碑が立つ。のちのちまで励まし続けた一端を物語る。

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 そして世界遺産となった巨大な繰糸場の中ほど、横田英の肖像写真が掲げてある。「世界遺産のヒロイン横田英」である。近代日本の夜明けを彩った一人として、鮮やかによみがえっている。
(次回から「蚕は家族」)

一口メモ[器械製糸]
水力や蒸気を動力に糸枠を回転させ、繭糸を巻き取る。人力の座繰り製糸では生糸に節があったり、太さにむらがあったりするのに対し、均質性を保つ長所がある。
(2017年3月18日号掲載)

=写真1=富岡製糸場にある皇后皇太后行啓記念碑
=写真2=松代へ向かう土口の街道