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06 高校教員に ~信濃史料を使い授業 生徒たちに喜ばれる~

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 大学を卒業する1971年に大学院への進学の話が持ち上がり、両親に相談するため、実家に戻りました。

 しかし、サラリーマン家庭では4年間の学費が限度と言われ、高校の先生をやりながら勉強をしていく道を選び、県の公立学校への就職を決めました。まだまだ生徒が増えるころで、教員が不足していた時代だったと思います。中野実業高校(現中野立志館)へ赴任しました。

 教員になってやったことの一つが社会運動への参加です。教員になったばかりのころ、時の教育長が新任者研修の任用期間を「風前のともし火」と評して、問題行動などがあれば採用しないと脅したのです。そんな言い方があるかと、反発する気持ちを共有した新任者たちで飲み会を開きました。

歴史学探求の面白さ
 この時の仲間がそのまま高教組の青年部に入りました。戦後の改革後で、今とは違い、組合活動をするのが当たり前という空気がありました。

 もう一つは、高校、大学からの継続になるのですが、長野県にも「村上国治を救う会(白鳥事件対策協議会)」ができ、事務局長を務めることになりました。再審の裁判では、疑わしきは被告人の利益になるかどうかの基準がなかったため、救う会は被告人の利益にするべきだと全国に訴えました。

 結局、最高裁は特別抗告を棄却したのですが、今後再審でも被告人の利益の原則が適用されるべきだという、通称「白鳥決定」と呼ばれる判決を出しました。それが75年のこと。救う会は解散することになりました。

 教師としては、信濃史料を利用して郷土の歴史史料と教科書での歴史学習を結び付けた授業をしました。生徒が授業に興味を示さなかったので、逆に史料による歴史学の探求の面白さを体験させてやりたかったのです。

 生徒が使った信濃史料の解読は大人でも難しい作業です。最初は大半が「面倒くさい」「何の意味があるのか」と否定的でした。

 けれども、1年を経て、まがりなりにも須高地域の歴史が分かったという気持ちが広がったようでした。「こんな地方にたくさん中央と関係している人がいるなんて、今までの歴史の勉強だけでは分からなかった」「中央と高井郡は必ずどこかでつながっている。歴史上有名な戦いに高井郡の武将が参加しているのに驚いた」...。

沖縄の全国教研へ
 生徒たちは熱心に取り組み、授業が生徒たちに喜ばれる体験を初めてしました。その実践報告「日本史授業での生徒集団における地域史研究」が推薦されて、県教育研究集会、さらに全国教育研究集会で報告することになり、1977年、私は初めて全国教研が開催された沖縄を訪ねました。

 この時、「ひめゆりの塔」もさることながら、壕(ごう)の中には、自決した住民と軍人の骨が見分けのつかない状態で散らばっていました。銃も弾丸もそのまま落ちていました。それで、やはり教師の組合活動が大事だと目を開かされました。

 予想外の生徒たちの反響が、私を沖縄まで連れていってくれた良い思い出です。
(聞き書き・中村英美)

=写真=中野実業高校で教員をしていたころ