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197 忍者 ~海外観光客誘致でアピール~

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 「海外からの観光客受け入れ態勢を整える元年にしよう」と、長野市内でこのほど「忍者ツーリズム キックフォーラム」が開かれた。忍者研究者の三重大教授や元観光庁長官らが登場。阿部守一知事や上田市の母袋創一市長ら約300人が集まり、「忍者ツーリズム」のアピールへ気勢を上げた。

 忍者の発生は、中世の戦国時代にさかのぼる。フォーラムでは、忍者ブームの始まりは戦後の少年雑誌やテレビアニメの「忍者ハットリくん」であるという社会学の分析も紹介された。アニメ番組が海外のテレビ局に重宝され、忍者は日本の代表的文化だとの認識が広がったのが背景だ。

 忍者は戦国時代、戦況を左右する「情報マン」、江戸時代は、諸大名を監視する狡猾(こうかつ)な御庭番(おにわばん)として活躍した。全国諸大名が確立した忍法は80流派を超す。多くは▽徳川幕藩統治の手段とされた伊賀の服部半蔵の流れ▽自然との融合を基盤とした戸隠流―に大別される。

 忍者にゆかりのある自治体などでつくる日本忍者協議会が長野でフォーラムを開いたのは、山岳修験(しゅげん)山伏に始まる戸隠、飯綱があるからだ。伊賀、甲賀などとともに、忍者の歴史が知られる地だ。

 戸隠忍者は庶民が信奉した山伏文化が色濃く反映している。周辺の黒姫、飯綱、妙高も修行エリアだった。上田の真田氏や佐久の祢津氏、滋野一族が重用して全国に広がった。「甲陽軍鑑」によると、川中島合戦で武田氏は70人を超す忍者を抱えたとの記録がある。

 歴史は概略800年以上前になる。木曽義仲に仕えて残党となった仁科大助(戸隠大助)は伊賀に逃れ、忍法発展に尽力。「戸隠流」の名が広まった。

 フォーラム基調講演で指摘された「忍者は平和の使徒である」との説に、いささか面食らった。「忍者は敵に出会うと、まず逃げる。戦って死傷し、情報を伝達できなければ、使命は果たせない。暴力を避け生き延びるサバイバルこそ、忍者の任務」というのだ。

 忍法が子どもたちも魅了するのは、自然の摂理を上手に利用しているからだろう。人跡未踏の深山幽谷(ゆうこく)で身に付けた生存ノウハウこそ忍術だとする。水面を走り火中に消える水遁(すいとん)火遁(かとん)は、自身の安全を図る術だ。手裏剣や爆弾、ガマ、毒蛇も逃げるための目くらまし道具である。

 忍術は敵陣かく乱の巧妙な策謀と思い込んでいたので、目からうろこが落ちるようだ。

 善光寺の参道に、戸隠の「チビッ子忍者村」の施設「忍者大門」があり、岩壁登りと隠れ部屋探検、手裏剣投げが人気だ。「土曜、日曜日は手裏剣投げだけで、1日150人を超える」と同店。

 忍者は大人の遊びではない。山野草を食い、時には薬にして生き延びる知恵は、山岳修験がルーツだ。「修験道は近代化の障害―と切り捨てられたのが悔やまれる」としたのは民俗学者の和歌森太郎だった。
(2017年3月25日号掲載)

=写真=岩壁登りや天井裏の隠れ部屋が人気の「忍者大門」
 
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