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07 学会活動 ~荘園研究で論文発表 2大学会審査に合格~

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 高校教員生活でのクラス担任は、中野実業高校(現中野立志館)に普通科が新設された2年目にスタートしました。サッカー部監督と部落研究会顧問を兼任。同研究会は、地域の被差別部落に調査に行きました。高度成長が終わって都市化が進む1970年代は、結婚差別なども徐々に少なくなってきた時代でした。

 教員になって3年目、73年の秋に結婚しました。妻は母と同郷の三重県伊勢市出身で、大学時代の同級生です。クラスの生徒たちがプレゼントをくれたり、作文を書いて贈ってくれたり、うれしかったのを覚えています。

 日本史学研究では、県内の荘園について2本の研究を76年と77年に発表し、研究者としての学会活動も本格的に始まりました。

新説を主張する
 田舎の教師の論文だから、地方史の学術雑誌に出るのが普通でした。ところが、私の場合は運よく、処女論文「東国における公家領荘園の構造に関する一考察」が、京都大学を中心にした全国組織の日本史研究会の審査に合格したのです。

 研究内容は、地元の長野市東和田から中越にある「太田」という呼称地名が、摂政関白を務めた近衛家(京都)の陽明文庫の古記録に出てくる「信濃国大田荘」と一致するのを発見したことです。

 平安時代の1140年頃、信濃の百姓が麻布を織って、荘園年貢として、摂関家に納めていたことが分かりました。この時、関白忠実が、貴族の使用に耐えないと、納められた麻布の織り直しを命令。百姓らは織り直して、納め直したという新史実を明らかにしました。

 それまで天皇家や摂関家の布は、国衙(こくが)や京都の織り手、いわゆる専門業者が織っていたと考えられていました。東国荘園では荘園領主権が弱いとする学会の通説を批判して、東国でも平安、鎌倉時代には荘園領主の権限は強く機能していたという新説を主張したのです。平安時代の信濃の百姓の史料は初めてで、全国誌の学術論文となりました。

 翌年は「荘園制支配と惣地頭の役割」が戦前からの伝統ある東京大学を中心とした全国学会誌の歴史学研究会の審査に合格しました。

 これは、鹿児島の薩摩藩主島津家の始祖・忠久が、近衛家の家来だった惟宗(これむね)氏の出身で、薩摩島津荘よりも前に信濃塩田荘や大田荘の地頭だったことを明らかにしました。地頭は荘園領主の支配を侵害したとする学会の通説を覆し、むしろ荘園領主の支配を補完したという新説を立てた論文です。

生徒との交流続く
 この2つの論文が出たことにより、私は日本中世史研究者として認知されました。

 当時、私のクラスでは「真理が我等を自由にする」をスローガンにしていました。国会図書館の正面レファレンスの壁にあった言葉です。教育も学問も同じで、どんな生徒も教師が勉強しているか否かを、背中を見て知っています。

 高校生は人生の中で最も多感な時期。教師と生徒の間にも人間的な交流が生まれやすいのかもしれません。初めての卒業生とは、40年たっても、盆暮れの交流であったり、米やアンズを持ってきてくれたりする付き合いが続いています。教師と生徒の立場を超えた人間的な付き合いというのは本当に不思議なものだと思います。
(聞き書き・中村英美)
(2017年4月1日号掲載)

=写真=結婚して間もなく訪ねた志賀高原で、妻と私(1973年)