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09 長野県史編纂 ~高校教員と兼任する 跡部の踊念仏を調査~

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 東大の内地留学から戻ってきた1980年ころは、婦人会議や母親大会、労働学校などから依頼されて講演を行いました。内容は性教育を含んだ「女性史」で、母親、高校生徒、先生らに向けて話しました。

 当時は性教育が取り上げられ始めたばかりで、女性史という歴史では、恋愛やセックス、性愛が一般的な性欲とどこが違うのかなどを、授業や講演で公然とテーマにできたのです。

 例えば、自由恋愛というのは近代に生まれたものであって、平安時代には婿取りが普通でした。長野県では婚姻史というのは、ほとんど知られていませんでした。この時期、そういう内容がよく受け入れられ、石川県からも招かれて話したことが印象に残っています。

12年間携わる
 内地留学から帰ってすぐの同年4月、長野県史刊行会から通史編の企画委員に任命されました。2年後には、正式に通史編の編纂(へんさん)委員も委嘱され、企画委員と兼任しました。

 月曜から木曜までの4日間は高校の教員として1週間分の授業をし、金、土、日曜の3日間は県史編纂の調査活動に飛び歩くというスケジュールが始まりました。当時は職場に自由があって、教員同士で金、土曜の授業を動かしてくれました。それがなければ兼任するのは不可能でした。

 84年からは古代史の編纂も加わり、結局91年まで12年間、県史編纂事業に携わりました。当時は若かったからできたのでしょう。

 長野県史の編纂委員は、ほかの都道府県と全く違っていました。各自治体誌関係の史料は、その都道府県内のものだけに限定しているのが普通でしたが、長野県史の場合、県関係の史料がありさえすれば、全国どこにでも調査に行けたのです。それが戦前からの大きな特徴で、特殊な例として全国に知られていました。

 具体的には、県史の中の荘園遺構調査(社会編)を東大名誉教授の宝月圭吾先生の指導の下、私が1人で担当しました。83年、佐久の伴野荘(ともののしょう)の交通と商業の調査を始め、跡部という所に踊念仏(おどりねんぶつ)が伝わっていることが分かりました。踊念仏は、鎌倉時代に一遍上人が始めたといわれているのですが、その証拠がありませんでした。

発祥の地を裏付け
 しかし、調べてみると、国宝の一遍聖絵の中に「信州佐久郡伴野市」の記述がありました。1279(弘安2)年、一遍は京都をたって善光寺に参詣。佐久伴野の市庭(いちば)で初めて踊念仏を行いました。ここが踊念仏の発祥の地であることが文献と地名で裏付けられ、学会で評判になりました。

 現地にそんな痕跡があるなどとは、誰も考えていませんでした。2000年には「跡部の踊り念仏」として国重要無形民俗文化財の指定を受けました。

 それと同時に県内の荘園遺構調査を始めました。平安、鎌倉時代の荘園、公領について日本中の史料を全部調べて確認をして、そのうち県内42カ所の現地踏査を行いました。地名などから荘園や公領の後の痕跡がどうあるのかを調べたのです。当時の現地踏査は、戦前の信濃史学会の研究者・栗岩英治先生の「草鞋(わらじ)史学」の伝統から生まれ、全国でも珍しい方法でした。
(聞き書き・中村英美)
(2017年4月15日号掲載)

=写真=県史編纂で調査をした当時の佐久市跡部の西方寺