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198 蔵春閣 ~善光寺平一望の地に由緒~

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 城山公園南端の高台にある「蔵春閣(ぞうしゅんかく)」が、老朽化のため、来春から使用停止になる予定だ。長野市制施行70年記念事業で1967(昭和42)年に建てられた一部4階建てのコンクリート造り。城山公民館別館ホールとしても活用されてきた。解体するかを含め、市の方針は決まっていないが、仰ぎ見る近隣の住民には感慨深い。

 公園の辺りは、中世、上杉謙信が横山城を築いた由緒ある場所だ。川中島合戦では、旭山に進出した武田勢と、善光寺本堂を挟んでにらみ合った。横山城は本丸をはじめ、二の丸、三の丸も備えた南北に長い城郭だったといわれる。ごくわずかではあるが、石垣跡が残っている。

 一帯が公園として整備され始めたのは、明治時代初めから。1877(明治10)年ころには「四宜楼(しぎろう)」という茶屋があり、宴会や浴室、展望を売り物にしていた―と、「善光寺繁昌記」(長尾無墨著)に記されている。

 その後、銀行家ら財界有志により、集会や著名人の講演をする「城山館」が、まず建てられた。残っている写真には、広間にシャンデリアが写っており、当時とすれば、なかなか豪華だったのだろう。

 そして、いよいよ蔵春閣の建築である。1908(明治41)年、一帯が「1府10県連合共進会」の会場になった。いわば博覧会で、施設整備が進んだ。共進会の貴賓接待施設として、城山館に隣接して建てられたのが蔵春閣である。

 しばらくは城山館蔵春閣と呼ばれ、演説会など政治の舞台にもなった。ちなみに、蔵春閣の名前は「春景色にあふれる善光寺平が一望できる」という評判から、付けられたとも伝えられる。

 67年に現在の蔵春閣が建てられたのは、戦後まもなくの49年に、隣の城山館とともに焼失してしまったからである。

 再建後は、市民ホール的な役割を担い、結婚式場として人気を集めた。「結婚式場が料亭主流の時代だったので、あこがれの式場だった。自分たちも100人以上を招待した」「屋上は野外音楽堂で、若者の出会いの場だった」と、思いを込めて語る人も少なくない。かつては地元の成人式にも使われ、懐かしがる人もいる。

 明治天皇、昭和天皇もここから善光寺平を望んだ。遠くを見下ろせる展望は、川中島合戦の地理的状況を実感できる。県が予定している公園内の信濃美術館の全面改築を控え、一帯の将来像を描く検討が進む。どう様変わりするのか、蔵春閣の歴史がどう生かされていくのか。注目していきたい。
(2017年4月22日号掲載)

=写真=戦国から明治の近代化など、市民のさまざまな思いがこもる蔵春閣
 
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