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009 蚕は家族〈3〉歴史を紡ぐ~万葉の世から脈々と息づく~

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たらちねの 母がその業(な)る 桑すらに 願へば衣(きぬ)に 着るといふものを
「万葉集」巻七
   
なかなかに 人とあらずは 桑子(くはこ)にも ならましものを 玉の緒ばかり
「万葉集」巻十二

    ◇

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 一言で言えば、恋心に目覚めた若い娘のもだえる心境である。

 好きな男性に会いたい一念だろう。無心に育つ蚕の姿と自分を重ねて思いにふける。「いっそ蚕にでもなってしまいたい」。切ない胸の内がいじらしい。

 1首目の冒頭、たらちねは母にかかる枕詞(まくらことば)。〈その業る〉には、異なる読み方と解釈があるけれども、「仕事として大切に育てている」意味に受け取れば分かりやすい。

 〈桑すらに〉の桑も桑子、つまり蚕のことと受け取る説がある。文字通り「蚕の食べる桑」とする説もある。いずれにせよ美しい絹に変身していく素晴らしさを踏まえている。

 2首目の〈なかなかに〉は、なまじっか、のこと。いっそ人間であるよりは蚕にでもなりたい―というのだから穏やかでない。〈玉の緒〉は、つかの間を指し、ごく短時間でも人恋しさを忘れておれるのに、と嘆くのだ。

 「蚕都」を誇る上田市に〈たらちねの...〉の万葉歌碑があると聞き、早速訪ねた。市街地の北より太郎山(1164メートル)のふもと。上田駅から松尾町や原町の目抜き通りを突っきり、山に向かう坂道をたどる。2キロ余り、30分ほどで目印の大星神社だ。道沿いの広い境内に囲まれている。

 その西側に隣り合って蚕養国(こがいのくに)神社がまつられていた。ゆったりと確保された敷地が、いかにも蚕都らしい。碑はそこにあった。

 〈たらちねの母がその業る...〉。くっきり白く浮き立つ文字を追いつつ万葉の世から今日まで、1300年にも及ぶ長い歳月をしのばずにおれない。

 蚕と人間の深いかかわりは、はるかな昔にさかのぼる。中国では約4700年前、野生の蚕を家の中で飼うようになったとされる。日本では北九州で紀元前100年ごろ、弥生時代前期の遺跡から絹織物が確認された。

 400年代に入ると、大陸から渡来した技術者集団による養蚕が本格化する。そして江戸時代の終わりには、生糸が花形の輸出品になっていった。

 こうした長い歴史の流れの中で、万葉集の歌にも養蚕の営みが読み込まれた。しかもそこには、恋心が託されている。精神的な領域の奥深いところまで、蚕が象徴的な役割を果たしていたことになる。
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 2首とも作者は特定されていない。民謡のように代々歌い継がれていたとすれば、それだけ養蚕文化の広がりをうかがわせる。

一口メモ 〔カイコの呼称〕
 なぜカイコと呼ばれるようになったか―。幾つかある説の一つが「飼う蚕(こ)」だ。ここから「飼蚕(かいこ)」と転じ、さらに1字の「蚕」になったとする見解である。
(2017年4月29日号掲載)

=写真1=上田市の万葉歌碑
=写真2=[蚕飼いの里は今] 長野市松代町豊栄