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11 県史執筆 ~宝月先生の徹底指導 繊細と大胆さを学ぶ~

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 長野県史編纂(へんさん)に取り組んでいた1983年、京都の日本史研究会から個別報告を要請されました。それまでは論文を学会誌に公表するのが学会活動でしたが、初めて全国の研究者が集まる大会で報告を頼まれたのです。大学の先生が報告するのが普通で、県史編纂では珍しいことでした。

 大会では、天皇や将軍家が行っていた「代始め安堵(だいはじめあんど)」を、摂政と関白の交代期に実施していた史実を近衛家の史料から発見し、中世公家の当主も家臣団に所領を安堵する封建領主制が、武家の場合と同様に存在していた学説を提起しました。翌年の学会誌に「中世的所有の一考察」として掲載されました。これ以来、「代始め安堵」という言葉が定着しました。

ほかにない発行部数
 86年には東京の歴史学研究会から大会報告を頼まれました。この時は、正月の修正会(しゅしょうえ)や二月神事、三節供や盂蘭盆会(うらぼんえ)、大祓(おおはらい)など、天皇を中心に行われていた国家儀礼が、同じ日に地方寺社や荘園鎮守などでも同一の民間儀礼として、中世社会でも行われていた史実を発見しました。

 同類の年中行事を、上は天皇から百姓に至るまで、同じ日に行っていたのです。子ども時代の年中行事が、9、10世紀から中世社会で定着していた事実を、社会構造論として発表しました。

 この年に長野県史通史編の「中世1」が、87年に「中世2」が刊行されました。これがとても評判がよく、発行部数は各巻とも9500部。当時全国の自治体編纂史で1万近い発行部数はほかになく、大きな話題になりました。

 中世1で私は「鎌倉時代の社会」を執筆しました。約170ページ、全体の3分の1に相当します。私の執筆原稿は、東大名誉教授の宝月圭吾先生と2人で何日もホテルに泊まり込み、典拠から史料解釈の詳細に至るまで、全て先生のチェックがかかって仕上げました。

 手書きでこれだけの分量になるものを、3回書き換えました。史料に即して一字一句をないがしろにしない繊細さと、主題に関連しないことはカットする大胆さ、論理性の大切さを教えられました。

 宝月先生の私への個人指導の様子について、今は亡き方々が県史刊行会発行の「長野県史をふりかえる」に残してくれました。

後に最大の武器に
 故石井進東大教授は「先生がいかに真面目に、一字一句の表現の末までゆるがせにしなかったかは、今も関係者の語り草になっています。宝月先生がどれほど『長野県史』を大事にしておられたのかが、本当によく分かる徹底したご指導ぶりでした」。故湯本軍一県史常任編纂委員は「気鋭の井原さんの個別指導をされるに当たっては、それこそ一言一句、何回か、幾日かにわたって行われた」。

 宝月先生の徹底した指導を受けた県史編纂を通じて、信濃史料の中世史料はもとより、全国の日本中世史料も、どこに何があるかなど、主要史料群のほぼ全容を暗記できたのです。このことは、後に国立歴史民俗博物館の教授になった時に最大の武器になりました。

 総合研究大学院大学で学者、博士の職務を全うできたのは、東大史料編纂所への内地留学と県史時代の宝月先生の個別指導の賜物(たまもの)でした。
(聞き書き・中村英美)
(2017年4月29日号掲載)

=写真=県史刊行を祝った打ち上げ会=後列右が私、前列右から2人目が宝月先生・1987年3月、長野市内で
 
井原今朝男さん