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12 山小屋論争 ~新説提起がきっかけ 全国的な学術論争に~

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 長野県史編纂(へんさん)を進めていた1980年代に大きな話題となり、全国の学会や考古学、城郭史などを巻き込んで展開されたのが「山小屋論争」でした。

 当時文化庁が、全国の城郭分布調査を始めました。80年に刊行された全18巻の「日本城郭大系」の第8巻「長野・山梨」は、磯貝正義山梨大教授と湯本軍一長野県史編纂委員が編纂者になりました。私も調査の一員として動員され、北信濃の一部を担当し、多くの山域に登りました。

 論争のきっかけは、私が83年に「長野」という雑誌に発表した「山城と山小屋の階級的性格」という論文でした。戦国大名文書の中に、大名の軍隊が利用する「山城」とは別に「山小屋」という呼称が出てくるのですが、誰も注意を払うことはありませんでした。

「山城とは別機能」
 具体的にみると、長野県庁の西側にそびえる旭山には、武田と上杉が取り合いをした山城が残っています。当時、中野実業高土木科の阿藤先生と2人で実測図をとると、立派な廓が有機的に結合され、階段状に配置されていて、守りがきちんとできていました。調査されていたのはこういうものばかりでした。

 しかし、実際に現地を歩いてみると、計画的に造られた山城とは別に、頂上付近や尾根筋、尾根の突端部分に非常に簡単なつくりの廓が二つか三つあるものも多いのです。

 古文書に「山小屋」は、山城とは別の役割があり、大名が地下人(じげにん)(百姓)を動員して峠や登り口を遮断する場合などに利用するとあり、地下人は形勢を見て裏切るから注意せよ―とも書いてありました。私は、戦国時代には武士がこもるのが山城で、百姓が利用するのが山小屋であるとし、機能は別だったという新説を提起したのです。

 これが話題になり、当時信大におられた笹本正治さんが、山小屋は百姓の避難小屋と解釈すべきで、井原説は違うのではないかと批判してくれました。すると、小穴芳実さんが山小屋も山城の一種類ではないかとする「山小屋は避難小屋か」という論文を雑誌「信濃」に発表し、ここが論争の場となりました。

 論争は次から次へと広がり、東京都立大の峰岸純夫さんや立教大の藤木久志さん、高知大の市村高男さんらも加わり、全国での学術論争へ発展していきました。

解明され評価受ける
 91年に峰岸さんが編集した「争点日本の歴史」には、山小屋論争展開の経過が記され、山小屋から山の城論へと学問が大きく動き、第2次山小屋論争が起こったことまでがまとめられています。

 結局論争は、94年に福島大の小林清治さんが、その成果をまとめた「戦乱をめぐる権力と民衆」という論文を著書「秀吉権力の形成」に発表。終えんを迎えました。

 結論は、どれが正しいかという問題ではなく、山城のほかに山小屋・小屋などと呼ばれる小規模城郭が存在し、多様な役割と機能があることが解明されました。村が持っている城も判明しました。また、戦国時代には権力だけでなく民衆も武装して武力を持ち、山小屋が軍事利用されることもあった―など、戦国時代の地域社会史の歴史像が豊かになったと評価されました。
(聞き書き・中村英美)
(2017年5月13日号掲載)

=写真=調査した千曲市一重山。右の山頂に山城の屋代城、左の山頂に山小屋を確認(1980年ころ)
 
井原今朝男さん