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13 信毎で連載 ~庶民歴史を紹介する 中世の「愛情」に反響~

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 「長野県史通史編 中世1」が刊行された翌年の1987年4月、屋代南高校から須坂高校に転任しました。県史編纂(へんさん)委員との兼務はそのまま続いていました。

 須坂高校では、クラス担任と生徒会の顧問をしていました。ここは生徒たちの自主活動が盛んで、文化祭の「りんどう祭」などは、熱心に取り組んで生徒たちだけでどんどん進めていきました。

 このころは、スキー教室が全盛で、私が内地留学をした時の研究者仲間もみんなスキーをやりたくて、志賀高原に泊まりで遊びに来ました。宿泊した夜は発表会をして研究成果を交換するのが恒例となり、1シーズンに2回はそんな機会がありました。

御家人の離婚裁定
 この年からは、県史古代史の専門部会が2週に1回あり、新潟県の奥山荘や白川荘、富山県や石川県などで荘園の調査を行いました。

 並行して、信濃毎日新聞の夕刊で「信濃の中世史を歩く~風景と人々」の連載が始まりました。前年に刊行された県史の評判がよかったことから、県史の要旨を、1回読みきりの記事で分かりやすく紹介していく企画でした。毎月3回、89年3月まで、約2年にわたって書かせてもらいました。

 県内編では、八坂の夫婦で作った千手観音や保科宿の遊女長者、善光寺門前にいた猿回しや琵琶法師など差別されていた雑芸民(ざつげいみん)と呼ばれた人たちのことなど、これまで注目されてこなかった庶民の歴史を取り上げました。

 反響が大きかったのは、中世の人たちが愛情についてどんな考え方をしていたのかにふれた回でした。

 鎌倉時代、埴科郡に所領があった市河高光という御家人は、妻となった藤原氏女が、結婚の条件にした「万一離別するような場合は屋敷と所領を譲渡する」という誓約書にサインします。高光は決断して結婚するのですが、不幸にも離婚することとなり、旧妻は誓約書の実行を要求しました。

 しかし、高光は譲るのが嫌になり、旧妻の密通を離婚の理由に裁判に訴えます。幕府の裁定は旧妻の勝訴、実際に所領を譲るよう判決が出され、藤原氏女の一代限りの支配が認められます。

信州人足跡が海外に
 約800年前、武士の結婚に際して、新婦は未来の夫に自分との婚姻が所領をかけるに値するものかの決断を迫り、新郎もまた、自己の全財産をかけて決断していました。結果的に破たんしたとはいえ、一つの愛情にこれほどの大きな価値をおいていた事実は江戸時代や近代にも見いだせないことや、高光の所領があった現地がどこであったのかなどを記しました。

 県外編では、福井県御賀尾浦の百姓が諏訪大社に御贄(みにえ)進上の苦労から途中で逃亡した話や、善光寺の住職の善峰が、朝鮮の高麗王朝から「大蔵経(だいぞうきょう)」をもらう取り次ぎを対馬の守護・宗貞国(そうさだくに)に依頼した話などを取り上げました。

 長野県史の調査研究で最も強烈な印象は、信州出身の百姓や武士、僧侶らの足跡が、京都、奈良は当然として、九州、沖縄から、東北、北海道、さらには中国、朝鮮半島という東アジアにまで及んでいたことでした。
(聞き書き・中村英美)
(2017年5月20日号掲載)

=写真=調査で訪ねた長崎県対馬市の万松院。善光寺住職・善峰の使者が出向いた宗貞国の墓所がある
 
井原今朝男さん