長野県史編纂(へんさん)の活動をしていた1984年、東大史料編纂所が進めていた京都大徳寺文書調査で、同寺の塔頭(たっちゅう)(子院)である徳禅寺の襖(ふすま)の下張りから新出の古文書数百点が見つかり、大きく報道されました。この中に、長野県関係の史料が含まれていたと連絡が入りました。

後醍醐天皇と足利尊氏は、1333(元弘3)年に佐久伴野荘(ともののしょう)を大徳寺の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)に寄進しました。これにより、この年始まった同寺建
立のため、伴野荘の百姓10人が強制動員されました。佐久

から京都へ上がって、毎日工事に参加し、食料は
自分が負担していました。耕地が借金担保に
1335(建武2)年、伴野荘桜井郷の二郎三郎、野沢郷の彦二郎ら10人は、自弁の食料を食べ尽くして、寺から麦1石を借用しました。この時、寺が借金の質物に各自の耕地を担保に入れさせた記録が出てきたのです。
寺が「申うくる―」と出した書面に10人の名が記され、その下に文字を書けない百姓たちがそれぞれ筆で略押(サイン)をしています。これが下張りにあったということは、返せなかったということで、土地は取り上げられたと考えられます。
また、「うけ申―」で始まる文書は、年貢29貫文(約290万円)を伴野荘から大徳寺へ送った送り状でした。
これら計7点の史料が、東大史料編纂所から宝月圭吾先生を通じて、私に送られてきました。1986年刊行の県史通史編に「荘園領主大徳寺は遠く佐久の地からも人夫を徴発し、京都まで自弁でやってきた農民に麦を貸し付け利益までとっていたのである。荘園制とは、京都から遠く離れた信濃の奥深い佐久の農民にとっても非情きわまりない抑圧収奪の機構であったといえる」と記述しました。
ところが、大徳寺から東大史料編纂所を介して、この記述に関する抗議がきたのです。県史内で相談して、1人で謝罪に大徳寺を訪れましたが、1日中待たされて、会ってはもらえませんでした。
私はこの話を佐久の歴史保存会でしましたが、地元の人たちは、史料がないから当然全く知らない。初耳です。一方、大徳寺開祖の宗峰妙超には、今日に至るまで700年余りも開山堂に毎朝、生の食事である生身供(しょうじんく)が奉納され続けています。
「歴史とは怖いもの」
つまり、大寺院や貴族には、今も「生き続ける歴史」が存在しているのに、佐久の中世農民の苦労は「忘れられた歴史」であることを初めて体感し、あらためて「歴史とは怖いもの」と実感しました。
88年に東大出版会が刊行した「中世東国史の研究」に、学術論文「中世東国商業史の一考察」を発表しました。前述の伴野荘からの送り状は、年貢麻布を京都に銭で送ったという借用文書で、東国荘園最古の為替関係文書だったのです。中世の為替関係史料が預かり状や借用文書になっていることを初めて実証し、中世の為替は借用文書から発達したという新説を問題提起しました。
これは為替借用文書論として学界に認知され、後に私が「債務史」という独自の研究分野を創造する出発点となりました。学界の論点を転換させる新出史料発見の偶然と幸運に恵まれたと感じました。
(聞き書き・中村英美)
(2017年5月27日号掲載)
=写真上=京都の大徳寺
=写真下=佐久伴野荘の農民らの麦借用状