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199 雲上殿 ~慰霊や供養の時代を映す~

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 善光寺の背後、地附山の中腹に見える雲上殿(うんじょうでん)納骨堂は、桜並木や善光寺平の眺望が人気を集め、行楽や遠足の名所になっている。久しぶりに訪ねてみると、きれいになっていてびっくり。近年の施設拡張とボランティアによる花木植栽や手入れが進み、様子が一変していた。

 1997年に増築された西納骨堂に加え、一昨年には東納骨堂が完成。目を見張る建物群となった。南側斜面にあったコンクリート造りの急階段が、つづら折りのスロープに改良された。「老若男女が憩うことのできる園地になるよう目指している」と善光寺事務局。

 雲上殿納骨堂は1935年に着工し、終戦後の49年に完成した。全国各地にいる善光寺信者の分骨や慰霊の求めに応じて企画、建設されたのだが、最近は地元の人たちの利用が目立つという。

 「一人娘が結婚して先祖代々のお墓の維持ができなくなったので、墓じまいをして、こちらに移した」と老婦人。冬場、亡夫の命日には善光寺本堂にお参りしているという。

 「スキーと山登り、温泉、ゴルフを目的に、東京から長野へ移住したが、妻に突然先立たれて」「一人暮らしだった叔母の遺言で」など、雲上殿への納骨の理由はさまざまだ。

 銀行員だった知人は生前、「現役時代、義理の絡む葬儀、法事に閉口した。家族を煩わせたくない」と言い残した。通夜は妻子だけ、葬儀はせずに、遺骨は斎場から善光寺本堂へ直行。読経の後、雲上殿で納骨した。同行したのは家族とごくわずかな人だけ。少しばかり寂しい思いも残るが、合理的だと考えれば納得もできる。

 地附山は、古代豪族が築いた古墳の集積地でもある。長野市教委によると、計7基。現存するのは、山頂(709メートル)にある「地附山前方後円墳」(全長39メートル)と、上池ノ平6号墳だけだが、古代人も浄土を夢見たのだろうか―とロマンをかきたてられる。

 時代は下って、善光寺信仰が広まった中世には、慰霊の小形五輪塔(60センチ前後)を建てるのが流行した。周辺の道路建設の折、1100基余が発掘され、近くの霊山寺(りょうぜんじ)に保存されている。中には、1487(文明19)年の銘が刻まれた石塔もある。

 第2次大戦では、終戦の年の8月、空襲に備え、善光寺本尊の入った厨子(ずし)が建設中の雲上殿に避難したこともあるという。本殿の善光寺縁起壁画は野生司香雪(のうすこうせつ)の作だ。戦前、インドの仏教聖地に招かれるなど、国際交流に貢献した画家だ。壁画は明るく分かりやすい。

 そんな歴史を踏まえ、雲上殿をわが家の仏壇、墓地として位置づける人々が増えているのだろう。海への散骨や樹木葬にまで踏み切れない庶民には、得心がいくことかもしれない。
(2017年5月27日号掲載)

=写真=一昨年完成した東納骨堂(右)と色鮮やかな本殿
 
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