記事カテゴリ:

23 富士見町 ~縄文中期の遺跡が集中 文学者に愛された高原~

23-higaeri-0513p1.jpg
 町の名前は、明治の初めに一帯の村が合併した際、「富士見村」と称したのが始まりという。文字どおり、「富士山が見える所」が由来だ。八ケ岳西南麓の裾野に町が広がり、南に南アルプスが迫る。

 諏訪郡富士見町のJR富士見駅の標高955メートルは、小海線以外では、JR駅で最も高い。1904(明治37)年、山梨県側から延びてきた中央本線の終着駅として開業。山間の寒村は高原の避暑地として知られることとなった。とりわけ目立つようになったのは、文学者だった。
23-higaeri-0513p2.jpg

 同年、歌人で小説家の伊藤左千夫が、諏訪の島木赤彦を訪ねる途上に来訪。これをきっかけに、斎藤茂吉や土屋文明ら、アララギ派の歌人が滞在するようになり、富士見の自然などを題材に作品を残した。駅の隣にある「高原のミュージアム」で、ゆかりの文学者と作品を、初版本や書簡など豊富な資料で紹介している。

 同町と文化人の関わりはもう一つ、富士見高原療養所(現富士見高原病院)を舞台に生まれた。澄んだ空気と強い紫外線が日光療法に適するとされ、26(大正15)年、先進的な高地結核療養所として開所。小説家堀辰雄は、婚約者と送った療養生活を基に「風立ちぬ」を書いた。画家の竹久夢二はここで生涯を閉じている。

 開設から約20年間院長を務めた正木俊二は、長野市生まれ。医師であり、俳人・小説家でもあった。交流のあった文化人に入院を勧めた逸話は「風立ちぬ」にも記されている。

 今、病院内には、ここで過ごした文化人や療養所の歴史を紹介する資料室がある。病院でロケが行われた「月よりの使者」「愛染かつら」などの映画ポスター、俳優の撮影スナップも展示されている。

 八ケ岳山麓には、縄文遺跡が集中している。町内で出土した土器や石器を並べる井戸尻考古館は、富士見駅から東京方面へ1駅、山梨県境近くの信濃境駅から徒歩約15分の所にある。

23-higaeri-0513m.jpg
 館内には、縄文時代中期、5千年前から1千年間の土器が、年代順、住居跡別にびっしりと並ぶ。縁に人面や煙を大胆に造形したものなど、その形や文様の多様さに驚かされる。4千年前にここから人が去った理由は謎だ。

 訪れた日は朝からどんよりと曇っていたが、夕方に青空がのぞき、南東を望むと、うっすらかすむ山が見えた。思ったより高い所に現れた頂に、「日本一の富士山」を実感した。
(竹内大介)
(2017年5月13日号掲載)

=写真上=板壁と三角屋根が高原らしさを感じさせる富士見駅舎
=写真下=井戸尻考古館に並ぶ縄文土器
 
小さな日帰り旅