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15 行政マンに ~県立歴史館準備室へ 全国初の統合館構想~

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 長野県立歴史館の建設に向けて、基本構想を作ることになった1988年2月、県立歴史館(仮称)展示等研究委員会委員に委嘱されました。須坂高校教諭と県史編纂(へんさん)委員と、3つを兼任することになりました。

 3年後の91年4月、高校教員から県教育委員会文化課の指導主事になりました。県史編纂委員は続けていましたが、ここで高校教員を辞めて、「行政マン」へと転身することとなりました。

 県立歴史館準備室の専門主事は総合情報、考古、文献資料で各1人の計3人。私の仕事は、歴史博物館建設のチームリーダーで、展示の基本設計から展示工事の実務担当でした。

草鞋史学を継承
 当時は、バブル全盛の終末期。多数の箱物が建設された時代で、東京都の鈴木俊一知事は江戸東京博物館の建設を進めていました。江戸東京博物館に先行して開館した広島県立歴史博物館も、中世の都市・草戸千軒遺跡の街並みの一部を実物大で再現した展示で、話題になっていました。

 博物館の展示や史料の複製などについては、全く経験がなく分からないので、歴史学界の人脈を頼りに聞いて回りました。

 初めに相談に行ったのは、文化庁美術工芸課長の浜田隆さんと、根津美術館学芸課長の西田宏子さんのところでした。西田さんは「これから増えるだろう地方の美術館や博物館の展示資料は、本物志向でないと飽きられる」と指導してくれました。

 草木や野菜など生きものを大事にする田舎の人であるほど目が肥えていると言われて、目を開かされる思いがしたのを覚えています。それは県史編纂でも10年間貫いてきた「草鞋(わらじ)史学」の実物第一主義の実証主義ともマッチしていました。

 そして2つの展示基本方針ができました。1つは、草鞋史学の伝統を継承し、県民のための学際的、総合的な歴史博物館・考古館・文書館の統合館構想です。

 他県では、3館は個別に造るのが普通で、統一方式は、全国初の事例で、「長野は安上がり方式」と批判されました。しかし、その後「失われた10年」で財政危機に陥った自治体では、統廃合が行われた所もありました。

教員とのギャップ
 2つ目は、本物に見て触れて体感できる展示です。博物館の「触ってはいけない」という常識を克服するため、歴史景観復元展示と、そこに現物の資料を優先的に展示するという、当時はどこもやっていなかった方式が採用されました。

 展示工事には、今からみると不可能なほど、大きな予算がかかりましたが、それもバブル経済の下で許され、県南俣庁舎の準備室で具体的な仕事が始まりました。

 教員から行政マンへの転身で強烈に印象に残っているのは、文化行政事務と教員活動のギャップです。教員時代は、朝起きた時から、その日生徒にどう対応するかなど、無意識のうちに子どもたちの気持ちを想像して考え、常に心の準備作業をしていました。文化行政の仕事では、それを全くしなくていいので、むしろ罪悪感があるようになったものです。高校教員を辞めて初めて、教師の肉体的、精神的疲労の大きさを実感しました。
(聞き書き・中村英美)
(2017年6月3日号掲載)

=写真=南俣庁舎の準備室で同僚と打ち合わせをする私(左)
 
井原今朝男さん