
県立歴史館準備室では、展示等研究会で審議をするのと同時に、教育委員会文化課と連絡をしながら、教育長、総務部長、副知事、知事レクにより決裁をもらう体制ができました。
当時の吉村午良知事に、一番大事な展示工事の基本設計の決裁をもらうため、教育長と文化課長と私が知事室に入った「知事レク」の決裁メモが残っています。説明を終えた時に、知事から突然「お前は誰だ」と問われました。教育長がすぐに「文化課の歴史館担当の主事です」と答えてくれました。
それを機会に、総務部長レクをクリアすると、ほぼ準備室の計画が微修正のまま理事者の決裁をもらえるようになったのです。
バブル経済の中で
ずっと後になって、定年退職された文化課長から、知事は「『あいつの言うことなら大丈夫』っていうのだよ」と話してくれて、うれしいエピソードとして残っています。
結局お金は、土地と建物を入れた総事業費79億円のうち、展示工事に12億円、展示資料購入費に4億円を使いました。バブル経済末期の1991年の話で、バブルはこの年の8~9月にはじけるのですが、準備室が機能している間は影響を感じないで済みました。
収蔵庫の書庫はカナダ杉で全部うめました。古文書の保存箱も福島県会津地方の桐材の特注品でした。これは、鎌倉時代の国宝や重要文化財を多数収蔵する神奈川県立金沢文庫と全く同レベルの仕様で、国立の歴史博物館よりもよいものでした。本物志向で現物を買う資料購入費優先の方針は今も堅持されていると聞きます。
展示工事では、県の通史の骨格部分を4つのメインテーマで構成しました。八ケ岳の縄文王国、中世の善光寺門前、近世は江戸時代の農家と中馬稼ぎ、近代は製糸業と松代にあった六工社の煉瓦(れんが)造りをメインテーマとしました。
これを全て歴史景観復元模型で展示し、入館者が展示に触れて、その時代の空気を、外からも中からもそのまま体感して分かるようにしたかったのです。
このうち、中馬稼ぎは、今でいう宅配便。江戸時代の信州の百姓は、農閑期に馬で荷物を運んで手間賃を稼いでいました。そのためには読み書き、そろばんが必須で、信州の農民は知的水準が高かったといわれます。
全国唯一の事例に
明治、大正時代は、養蚕と製糸業で所得水準や教育力が高く、村の夜学や演説討論会で自由民権の新聞や雑誌を読んでいたという話が残っています。長野県が教育県といわれる基は、中馬稼ぎや養蚕、製糸だったわけです。それが入館者にも分かるように、家の中で馬を飼い、人馬一体の暮らしをしていた農家を忠実に復元しました。
製糸業で展示されているボイラーは、当時研究が少ない中で、しっかりとした学術的根拠の上に作っていただきました。
広島県立歴史博物館と江戸東京博物館が、部分的に始めた歴史景観復元模型方式を、常設展示に全面採用したのは長野県が全国で初めてでした。バブル経済の最後だったからできたのです。その後の博物館建設では、バブル崩壊で予算的に不可能になり、長野県の歴史景観復元模型展示は全国でほぼ最後で唯一の事例となりました。
(聞き書き・中村英美)
(2017年6月10日号掲載)
=写真=総務部長レクのために使った常設展示模型(1993年11月)