
総事業費79億円をかけた県立歴史館は1994年10月に開館しました。常設展示は、テーマを固定化しないで、入館者がいつ来ても新しいテーマ展示を楽しめるようにローテーション展示にしました。
「見て、触れて、体感できる博物館」のコンセプトは、口コミで話題となり、東京や名古屋から「博物館ミステリーゾーンツアー」なる企画で観光バスが何台も来るほどの人気を集めました。
オープンしたこの年は、翌年の3月末まで5カ月間に10万人が入館しました。翌年も10万人。減るだろうと思われた3年目も10万人が入りました。開館運営時に、入館者数の見込みを年間5万人と予想していたのでうれしい誤算でした。
県立歴史館に評価
地方の博物館で開館から3年連続で、10万人の入館者があったというので、全国博物館協会から県立歴史館のコンセプトを論文にしてほしいと依頼がありました。それで執筆した研究論文「楽しく体感できる歴史展示を」が、97年発行の「博物館研究」に掲載されました。
翌年、水戸市で開かれた日本博物館協会全国大会で博物館学の「棚橋賞」を受賞しました。県立歴史館のコンセプトや運営企画が、博物館学の新分野を開拓した功績として評価され、画期的なことでした。
県立歴史館開館から2年後の96年3月、中央大学大学院で史学博士号を取得しました。このころ博士学位の取得は医学部、法学部や理工系では一般的でしたが、人文・社会科学系では少数でした。大学改革の中で文部省は、世界の交流が進んできたのだから、学位を持っている人を大学教授として認知する制度を定着させようと、博士学位の取得を奨励していました。
私は、91年に東大史学会の「史学雑誌」に学術論文を公表しました。博士学位を取る際には、ここへの論文掲載が慣例となっていました。この年はほかに2本の論文を発表しました。
これがきっかけで私の学説が学会で認知され、「職事(しきじ)弁官政治論」と呼ばれるようになりました。天皇親政・摂関政治・院政に政治史が変動しても、天皇、摂関、上皇三者の合議による国家意思決定システムは制度化されており、政治史と職事弁官政治構造論とは区別すべきと主張したものです。91年から95年にかけて「史学雑誌」で学術論争となり、活発に研究が進みました。
大学院が査読審査
当時、博士号の取得には、大学院に入る「課程博士」と学術論文の審査による「論文博士」の2つのコースがありました。学会の勧めもあって、中央大学大学院に論文博士の査読審査をお願いして認められたのです。
史学博士号の学位をもらうと、当時の県教委文化課長が、県民の歴史館への信頼を厚くすることでもあるからと、教育長や総務部長らへあいさつ回りをさせてくれました。
折しも、文部省が大学院大学の増設策を推進していたので、大学設置審査会は、「○ドク(まるどく)」といって、博士号取得者を前提に教授の人選をしていました。史学博士号を取得したことが、後に国立歴史民俗博物館教授職を紹介されるきっかけとなりました。
(聞き書き・中村英美)
(2017年6月24日号掲載)
=写真=博士号学位授与式で中央大学長から学位証を受ける私