
江戸幕府3代将軍徳川家光=幼名竹千代(1604~51年)を育てた乳母「春日局(かすがのつぼね)」と善光寺との関係が深いことは、意外に知られていない。
本堂北の大本願廟所(びょうしょ)に隣接する徳川家大奥供養塔(通称・大奥墓地)の中に、玉垣に囲われた「春日局供養塔」がある。墓碑は背丈ほどの宝篋印塔(ほうきょういんとう)形式。家光の正室本理院(鷹司孝子)の供養塔と威を競っている。
バブル経済期の1989年放送のNHK大河ドラマ「春日局」は当時、女性の社会進出を反映、印象付けた。羨望や揶揄を込めて「おつぼねさま」という言葉がはやったのも、春日局が一因だろう。
幼名お福の春日局は、戦国の乱世に、明智光秀の腹心だった斎藤利三の子に生まれた。織田信長の安土城天守閣が完成した1579(天正7)年のことだ。明智が信長を襲った「本能寺の変」の時は、数え4歳だった。父は「山崎の戦い」で羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、斬首された。お福は逆賊の子となった。
しかし、その後、慎み深さと利発さから大名小早川家の重臣稲葉正成の後妻に。この正成は、関ケ原の戦いで小早川秀秋を徳川家康側へ寝返らせたことで有名だ。
お福が2代将軍徳川秀忠の子、竹千代の乳母になった経緯については諸説あるものの、戦国の人脈を生かした強運の女性だったことに、異論はないだろう。大奥の組織化と人脈整備にらつ腕を振るい、家康の厚い信任を得て自分の権威を不動にした。竹千代と弟の国松を支持する一派との3代将軍職争いを勝ち抜いた。
彼女が45歳の時、竹千代が3代将軍となり、翌年、京都の鷹司家から孝子が正室に。朝廷、宮家から正室を迎えるのは、幕府の権威を保つためには欠かせない。春日局が力を発揮した。
家光は、父秀忠と母お江与の位牌を善光寺大本願に納め、寄進を重ねた。お江与(えよ)(お江(ごう))は、織田信長の妹お市の娘である。「善光寺大本願と大奥に深い絆ができるのは、家光の時代から」と研究者は見る。家光が善光寺参拝をもくろんだという記録もある。家光だけでなく、正室の善光寺信仰も、春日局が導いたとされる。
大本願は境内に御霊屋(おたまや)を建てて、大奥からの位牌を迎えた。徳川家大奥供養塔は、明治初めまで大本願境内にあったのを、今の場所に移して改装した。
家光は徳川幕藩体制を確立した―と評価されている。ブレーンは春日局だ。戦国の世をさまよったお福は希代の女傑になり、従2位まで出世した。1643年に65歳で生涯を閉じた。東京都文京区湯島の麟祥(りんしょう)院に眠っている。
(2017年6月24日号掲載)
=写真=善光寺本堂の北にある「徳川家大奥供養塔」